黒猫とアメリカの闇

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

エドガー・アラン・ポーは世界初の推理小説『モルグ街の殺人』の作者として知られるが、彼の文学的業績はミステリの発明だけにとどまらない。ポーはアメリカ・ロマン派のもっとも暗い側面を体現した作家でもあった。1843年に発表された短編『黒猫』は、人間心理の奥底に潜む「闇の力」を描いた作品であり、アメリカ文学におけるロマン主義の本質を理解するうえで欠かせない一作である。

アメリカ・ロマン派の思想的背景

『黒猫』を読み解くためには、まずアメリカにおけるロマン主義の位置づけを確認しておく必要がある。

西洋文学史は大きく、古典主義からロマン主義、そしてリアリズムへと流れをたどる。古典主義は古代ギリシア・ローマの理想化された作品への回帰を志向し、リアリズムは19世紀半ばに社会や日常をあるがままに描く流れとして現れた。その間に位置するロマン主義は18世紀末にヨーロッパで興起し、感情や神秘体験、想像力を重視して、形式的な制約からの解放を追求した。

アメリカにおける思想の流れはさらに独自の展開を見せる。16世紀から17世紀にかけてはピューリタニズムが支配的であり、神への無条件の服従が求められた。17世紀から18世紀にかけての啓蒙主義は三位一体を否定し人間の理性を信頼する立場をとった。19世紀初頭にはエマーソンらによる超絶主義が登場し、個人の直観と自然との交感を重視した。

アメリカ・ロマン派はこうした流れのなかで、非合理な題材を写実的に、かつ読者の想像を掻き立てるように描くことを特徴とした。幻視力を重視するこのスタイルは、ポーにおいてもっとも暗く、もっとも鮮烈な形で結実することになる。

「ノヴェル」と「ロマンス」

ここで文学形式の区別にも触れておきたい。英語圏では「ノヴェル」(novel)と「ロマンス」(romance)は異なる概念だ。ノヴェルは近代社会の成立とともに発展した形式で、均質的な市民階級の日常を描写する。ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)がその先駆とされる。

一方、ロマンスは幻想的・超自然的な要素を含む物語性の強い大衆向け長編であり、ノヴェルよりも自由度が高い。ポーの『黒猫』はまさにこのロマンスの系譜に属する作品だ。日常と超自然の境界を揺るがし、読者の想像力に働きかける手法は、合理と非合理の緊張関係のうえに成り立っている。

『黒猫』の語り手

1843年8月、『ユナイテッド・ステイツ・サタデー・ポスト』誌に発表された『黒猫』は、語り手自身が自らの破滅を告白するという形式をとっている。

語り手の「わたし」は「素直で思いやりのある性格」「優しい心の持ち主」として少年時代を過ごした人物だ。何よりも動物を愛し、両親も「様々なペットを惜しみなく与え」てくれた。成人して結婚した後も、妻とともに小鳥、金魚、熱帯魚、ウサギ、小熊、そして猫を飼っていた。なかでもお気に入りはブルートーと名付けた黒猫で、「彼はこちらのあとをどこにでもついてきた」というほどの親密さだった。

この穏やかな前景から、物語は急速に暗転する。語り手はやがて「酒乱の悪魔」と化し、不機嫌が高じて妻やペットたちに暴力をふるうようになる。ある夜、ブルートーを捕まえてナイフで片目をえぐり取る。翌朝「理性が戻って」深く後悔するものの、その直後に酒に溺れてすべてを忘却してしまう。

「天邪鬼」の衝動

ここでポーが描き出すのは、人間の心理に潜む「天邪鬼」(the imp of the perverse)と呼ぶべき衝動である。語り手は善悪の区別を明確に理解していながら、「悪のためのみ悪をなす」という不可解な衝動に駆られてしまう。この衝動に導かれ、語り手はブルートーの首に縄をかけ、庭の木に吊るして殺す。

語り手の告白は痛ましい。「吊るしたのは、黒猫が私を愛しているのを知っていたから。わたしがそいつに危害を加えるべき理由を一切与えなかったから」。愛されているからこそ殺すという逆説は、ポーが人間心理の暗部をいかに深く見つめていたかを物語っている。

語り手はこの行為を「憎悪の極み」と認識し涙を流すが、良心の呵責は行動の抑止力にならない。そしてその夜、語り手夫妻の家は火事で全焼する。焼け残った漆喰の壁に、吊るされた猫の姿がくっきりと浮かび上がっていた。

第二の黒猫と絞首台の影

物語はここからさらに不気味な展開を見せる。ブルートーを失った語り手は、ある酒場の酒樽の上から「ブルートーに瓜二つ」の黒猫を見つける。片目がえぐられている点まで同じだ。ただし胸に「ぼんやりとした巨大な白い斑点」があった。

妻は新しい猫を可愛がるが、語り手はこの猫にまとわりつかれることで内なる嫌悪感を掻き立てられ、殺意すら抱くようになる。しかし思いとどまらせたのは、胸の白斑が次第に変化し「縄の模様」、すなわち絞首台の形に見え始めたことだった。語り手はこれを「恐怖と叡智、苦悩と死を見るときの動力源なのだ」と認識し、絶対的な恐怖に捕われる。

この白斑の象徴性は巧みに設計されている。第一の黒猫は火事の残骸に首吊りの縄模様として壁に浮かび上がり、第二の黒猫はその胸の斑点が絞首台を想起させる。いずれも語り手の悪事を「見張る」存在として機能し、罪から逃れられないという道徳的効果を担っている。

破滅の結末

語り手はついに妻を斧で惨殺し、死体を地下室の壁に塗り込めて隠蔽する。黒猫は姿を消す。四日後の家宅捜索で何も発見されず、語り手は有頂天になって「これが実によく練られた家だ」と警官の前で壁をトントンと叩いてみせる。すると壁の中から叫び声が上がり、警官たちが壁を崩すと、妻の腐乱死体の頭上に第二の黒猫が座っていた。語り手は自らの虚栄心によって自滅したのだ。

ポーの巧みさは、超自然的な要素を示唆しつつも合理的な説明を排除しない点にある。第二の黒猫が偶然壁の中に閉じ込められたのか、それとも何か超自然的な力が働いたのかは、読者の解釈に委ねられている。このアメリカ・ロマン派特有の手法、すなわち暗い想像力と計算的な構成の融合が、『黒猫』を単なるホラーではなく文学作品として成立させている。ハリー・レヴィンが1958年に著した『闇の力』は、こうしたアメリカ文学に通底する暗部を体系的に論じた評論だ。

「闇の力」の系譜

ポーが描いた「闇の力」というテーマは、英語圏の文学に広く波及していった。ポーランド出身のイギリス作家ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』(1899)はアフリカ奥地を舞台に文明と野生の境界を描いた作品であり、フランシス・フォード・コッポラの映画『地獄の黙示録』(1979)の原型となった。アメリカ文学においても、ホーソーンやメルヴィルからフォークナー、フラナリー・オコナーに至るまで、人間心理の奥底に潜む暴力性と非合理性という主題は繰り返し問い直されている。

魔女狩りとピューリタニズム

『黒猫』の背景には、アメリカの歴史に深く刻まれた魔女狩りの記憶がある。「黒猫というのはすべて魔女の変装なのだ」という観念は語り手の強迫観念であると同時に、かつて実際にアメリカ社会を支配した信仰でもあった。

17世紀末、マサチューセッツ植民地のセイラムで起きた魔女裁判は、アメリカ史上もっとも暗い出来事の一つである。サミュエル・パリス牧師に仕えていた先住民系の女性奴隷ティチューバが魔術の疑いで告発されたことを発端に、集団ヒステリーが広がり、150名以上が逮捕された。そのうち19名が絞首刑に処され、少なくとも5名が獄中で死亡した。

当時のピューリタン社会は極めて厳格な道徳社会であり、わずかな倫理的逸脱も異端として扱われた。宗主国イギリスとの緊張関係もあり、異端排除の動きは一層強化された。異端分子は仮想敵としてスケープゴートにされ、黒猫は使い魔として、その主人は魔女として告発の対象となった。「スペクトラル・エヴィデンス」(幽霊証拠)と呼ばれる超自然的な証拠が裁判で採用されるなど、今日の法的基準からは到底正当化できない手続きがまかり通っていた。

19世紀のアメリカにおいても、ピューリタニズムに根ざした神と悪魔の二元論的世界観は色濃く残っていた。禁酒運動がその一つの現れであり、『黒猫』の語り手が酒乱に陥ることで破滅していく構図は、こうした時代背景と無縁ではない。

ポーは『黒猫』において密告と絞首刑という魔女狩りのモチーフを巧みに織り込みながら、ピューリタニズムの道徳的厳格さが生み出す恐怖を描き出した。第二の黒猫の胸の白斑が絞首台の形をとっているのは、セイラムの記憶が19世紀アメリカの文学にいかに深く影を落としていたかを示す象徴的なイメージである。

ポーが描いたのは単なるゴシック・ホラーではなかった。アメリカという国の精神史に刻まれた恐怖と罪悪感を、一匹の黒猫というイメージに凝縮して見せたのである。

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