貴族道徳と奴隷道徳

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本稿は、筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、加筆修正を加えて執筆したものです。

道徳の起源を問う

「善」と「悪」は自明の概念ではない。ニーチェは『道徳の系譜』(1887年)において、これらの道徳的概念の起源を系譜学的に探究し、道徳が歴史的に構成されたものであることを暴露しようとした。

系譜学とは、ある概念や制度が「なぜ」「どのようにして」生まれたのかを、歴史的な生成の過程に遡って問う方法論である。ニーチェにとって、道徳的な「善悪」の判断は天から与えられた永遠の真理ではなく、特定の人間集団の特定の利害関係から発生したものである。『道徳の系譜』の序言でニーチェ自身が述べるように、この書は『善悪の彼岸』の「補遺および解説」として執筆された。彼が問うのは、「善悪の価値判断はこれまでどのような条件のもとに発明されたのか」であり、「そうした評価そのものの価値」である。

貴族道徳

ニーチェが区別する第一の価値評価の様式は「貴族道徳」である。それは高貴な者、強者、支配者が自らを「よい(gut)」と肯定することから生まれる。

ニーチェによれば、「〈よい〉という判断のおこりは、むしろ〈よい人〉たち自身にあった」(ニーチェ『道徳の系譜』、377頁)。高貴な者たちはまず自己と自己の行為を肯定し、そこから「よい」という価値を創造した。ここで重要なのは、この価値評価の方向性である。貴族道徳は自己肯定から出発する。「よい」とは高貴であること、強力であること、優れていることを意味した。

この道徳における対義語「わるい(schlecht)」は、単に卑俗で劣っているという軽蔑の意味にすぎない。「わるい」は独自の価値判断ではなく、「よい」の残余として事後的に生じた概念である。ニーチェはその語源学的な裏付けとして、ヨーロッパ諸言語における「よい」を意味する語が、もともと「高貴な」「貴族的な」「身分の高い」を意味していた事実を指摘する。ドイツ語の「schlecht(わるい)」がもともと「schlicht(素朴な、単純な)」と同義であったことも、この分析を支持している。

奴隷道徳とルサンチマン

第二の様式は「奴隷道徳」であり、弱者や被支配者のルサンチマン(怨恨、ressentiment)から生まれる。貴族道徳が自己肯定から出発するのに対し、奴隷道徳は他者への否定から始まる点で根本的に異なっている。

ニーチェは明快に述べる。「奴隷道徳は初めからして〈外のもの〉〈他のもの〉〈自己ならぬもの〉にたいし否と言う」(同上、393頁)。弱者たちは、まず自分たちを支配する強者を「悪い(böse)」と断じ、その否定を通じて自分たちを「善い(gut)」と定義した。

ここで決定的な役割を果たすのが、ルサンチマンという心理的メカニズムである。ルサンチマンとは、本来の行動によって解消されるべき衝動が、現実の無力によって阻まれ、内向して蓄積されていく感情である。強者に対して直接的に抵抗する力をもたない弱者は、「想像上の復讐」によってのみ満足を得る。奴隷道徳における「善」は、この想像上の復讐から派生した反動的な概念なのである。

ニーチェによれば、奴隷道徳の人間は、貴族道徳の人間とは根本的に異なる知性の使い方をする。貴族的な人間にとって知性は副次的なものであるが、ルサンチマンの人間にとって知性は生存のための不可欠な条件である。強者が忘却の能力によって過去の出来事を消化するのに対し、弱者は記憶のなかに怨恨を蓄積し、それを道徳体系へと結晶化させる。

祭司的価値転換

ニーチェによれば、この価値の転倒は歴史的にはユダヤの祭司階級によって開始された。祭司的な民は、戦士貴族的な価値評価を逆転させ、「貧しき者、無力な者、卑しき者のみが善き者であり、苦しむ者、欠乏する者、病める者、醜き者のみが敬虔な者であり、神に祝福された者である」という新たな等式を打ち立てた。

ニーチェはこの転倒を「道徳における奴隷一揆」(同上、389頁)と呼んだ。この一揆は武力によるものではなく、価値観の転換という形で遂行された。キリスト教道徳はこの祭司的価値転換の歴史的帰結であり、弱さを美徳に、無力を善良さに、復讐の断念を赦しに読み替えることで、弱者の道徳を普遍的な道徳として確立した。

二つの道徳の構造的差異

両者の本質的な差異を整理すると、それは価値創造の方向性にある。

貴族道徳は「よい(gut)/わるい(schlecht)」という対立に基づく。まず自己を肯定し、そこから価値を定立する。能動的であり、創造的である。

奴隷道徳は「善(gut)/悪(böse)」という対立を生み出す。まず他者を否定し、その否定の裏返しとして自己を規定する。反動的であり、受動的である。

ニーチェが注目するのは、ドイツ語で貴族道徳の「よい」も奴隷道徳の「善い」もともに「gut」という同じ語で表されるにもかかわらず、その意味と起源がまったく異なるという事実である。貴族道徳の対義語「schlecht」と奴隷道徳の対義語「böse」も、まったく異なる概念である。前者は単なる軽蔑を表すにすぎないが、後者は積極的な敵意と恐怖を含んでいる。

系譜学がもたらすもの

ニーチェの系譜学は、現在のわれわれの道徳的直観に対して根本的な疑問を投げかける。われわれが自明視している「善悪」の感覚は、特定の歴史的条件のもとで形成されたものにすぎないのではないか。とりわけ、弱者の怨恨に由来する「善」が普遍的な道徳として受容されている現状は、批判的に吟味されるべきではないか。

ニーチェは道徳を否定しているのではない。むしろ、道徳の起源を問うことで、われわれが無自覚に従っている価値体系を意識化し、能動的に価値を創造する可能性を取り戻そうとしたのである。

参考文献

  • フリードリッヒ・ニーチェ『道徳の系譜』、ニーチェ全集11、信太正三訳、ちくま学芸文庫、1993年

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