哲学は文学的表現を必要とするか

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と述べ、哲学における厳密性を重視した。哲学は曖昧さを排し、論理的に明晰な言語で真理を語るべきだという理想がそこにはある。

ところが皮肉なことに、この言葉自体が詩的で暗示的な響きを持っている。翻訳の問題ではない。仮に「語れないことについては語るな」と素っ気なく言い換えたとしても、なお示唆的な含意がそこに入り込んでしまう。こうして考えていくと、メルロ=ポンティが論じるサルトルの洞察、すなわち「最も無味乾燥な散文であっても常に若干の詩を含む」(メルロ=ポンティ『意味と無意味』)という事態が、あらゆる言語表現を覆っていることに気づかざるをえない。

結局のところ、これは哲学と文学的表現の関係という問題に集約される。哲学は本当に文学的表現を排除できるのか。それともむしろ、哲学はそれを必要としているのか。本稿では、哲学と文学の歴史的対立から出発し、哲学者自身の実践における矛盾、言語の本質的限界を経て、哲学における文学的表現の必然性について論じる。

哲学と文学の古典的対立

西洋哲学の出発点において、プラトンは詩人を理想国家から追放すべきだと主張した。『国家』において、プラトンは詩人を「本性(実在)から遠ざかること第三番目の作品を生み出す者」と批判する。彼の存在論によれば、イデアこそが真の実在であり、現実の事物はその模倣であり、詩人が描くものはその模倣のさらなる模倣にすぎない。詩人は「真理からはるかに遠く離れて、影絵のような見かけの影像を作り出す」のである(プラトン『国家』)。

この批判の背景には、真理を歪曲しない純粋な言語への希求がある。プラトンにとって、詩は魂の「感情をたかぶらせる」部分に訴えかけ、理性的な部分を弱体化させるものだった。詩が人々に受け入れられやすいのは、まさに感情的で模倣しやすい性格を描くからであり、「思慮ぶかく平静な性格」は描写しにくく、理解もされにくい。詩は、国家にとっても個人の魂にとっても有害だというのがプラトンの立場である。

20世紀になっても、この系譜は途絶えない。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである」と述べ、哲学の方法を言語の論理的分析に限定しようとした。彼にとって、「すべての哲学は『言語批判』である」。語りうることを厳密に語り、語りえぬことについては沈黙する。それが「唯一厳格に正しい方法」だとされた(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)。

ウィーン学団もこの立場を受け継ぎ、形而上学的な命題は「完全に無意味」であると宣言した。「神が存在する」「世界の根源は無意識である」といった命題は、事実について何かを述べているように見えるが、実際には「生命感のようなものを表現しているにすぎない」。そうした生命感の表現には「叙情詩や音楽といった芸術」がふさわしいのであり、哲学がそれを引き受けるべきではない(クラーフト『ウィーン学団』)。

以上は、哲学から文学的な装飾を排し、論理的な厳密さのみを追求すべきだという立場である。彼らにとって、文学的表現は曖昧さや多義性を含み、真理の探求には不適切だとされた。

ただし、古代においても、この立場は必ずしも自明ではなかったことを指摘しておきたい。プラトンの弟子であるアリストテレスは『詩学』において、詩作と歴史を比較し、「詩作は歴史にくらべてより哲学的であり、より深い意義をもつものである」と論じている。歴史が「すでに起こったこと」、すなわち個別的な事実を語るのに対し、詩は「起こりうること」、すなわち普遍的なことを語る。アリストテレスにとって、文学的な創作はむしろ哲学に近い営みだった(アリストテレス『詩学』)。この対立は、哲学と文学の関係が単純な排斥関係ではないことを示している。

哲学者自身の文学的実践

哲学者は一方で厳密さを要求しながら、他方で実践においてはしばしば文学的で詩的な表現を用いている。この不一致は、哲学者の不注意として片づけてよいのだろうか。

ハイデガーは『存在と時間』の序論で、自身の「表現のぎごちなさと『まずさ』」について率直に言及している。「存在者に関して物語りつつ報告することと、存在者をその存在においてとらえることとは別個のことである」。存在を語るためには通常の言語では不十分であり、「たいてい言葉が欠けているばかりではなく、なかんずく『文法』が欠けている」(ハイデガー『存在と時間』)。

ハイデガーはさらに後年、『ヒューマニズム書簡』で「言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである」と述べている。ここでは哲学者と詩人が同列に置かれ、ともに言葉の「番人」として存在の真理に関わるとされる。さらに彼は「言葉を文法学から解放して、もっと根源的な本質構造のなかへと置き入れることは、思索と詩作に取っておかれている」とまで言う(ハイデガー『ヒューマニズム書簡』)。これは、哲学が文学的表現を排除するどころか、詩作とともに言葉の根源に向かうべきだという主張にほかならない。

メルロ=ポンティも「根源的な言葉」について語る際、それは「最初の語を発する幼児の言葉、自分の気持ちを発見する恋する人の言葉、『言葉を発した最初の人間』の言葉、あるいは伝統以前の原初的な経験を目覚めさせる作家や哲学者の言葉」だと述べている(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)。ここでも作家と哲学者は並置されている。

こうした哲学者たちが文学的表現に頼らざるをえないのは、彼らが語ろうとしている内容そのものが、既存の言語体系では捉えきれないからである。ベルクソンは芸術家を「実生活にそう固執しないような感覚や意識をもつ人」と特徴づけ、芸術家が人よりも多くのものを見るのは「その知覚を利用しようと考えないから」だと論じている。そして、「自然が時たま気まぐれのように幾人かの特権者のためにおこなっていること」を、哲学が「すべての人のために試みることはできないものでしょうか」と問いかける(ベルクソン『思想と動くもの』)。哲学の営みには、既成の概念の枠を超える知覚への志向が含まれており、その表現もまた既成の言語の枠を超えざるをえない。

言語そのものの限界

この問題をより深く理解するために、言語そのものの本性を考察しよう。言語は果たして現実を直接に記述できるのだろうか。

ベルクソンは『意識に直接与えられたものについての試論』で、言語が経験を歪曲する仕組みを分析している。「本能的に、みずからの諸印象を固化せしめ、それらを言語によって表現しようとする傾向がわれわれにはある」が、その結果として「不断の生成のうちにある感情そのものを、その恒常的な外的対象と、またとりわけこの対象を表現する語と混同することになる」。言語は「われわれに感覚の不変性を信じ込ませるばかりでなく、感得された感覚の性格についてしばしばわれわれを欺きもする」(ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』)。

つまり、言語は流動的で生きた経験を固定化し、本来の姿とは異なるものに変えてしまう。ある味や香りが子供の頃は好きだったが今は嫌いだとしても、同じ名前で呼ぶがゆえに、感覚が変わったのではなく「嗜好」が変わったと思い込む。実際には感覚そのものが変容しているにもかかわらず、言語がその変容を覆い隠すのである。

ヘーゲルは『精神現象学』において、言語のこの性質を別の角度から照射している。感覚的確信は一見すると「もっとも豊かな認識」であるかのように見えるが、実際にはそれが言い表しうるのは「ただ『そのものが存在する』ということ」にすぎない。「〈いま〉とはなにか」に対して「〈いま〉は夜である」と答えても、その真理を書きとめて翌日の白昼に見直せば、「気の抜けたもの」になっている。「いま」という語が指示しうるのは、夜でも昼でもなく、あらゆる個別の時点を超えた普遍的な「いま」にすぎない。ヘーゲルはこう結論する。「私たちはけっして、じぶんが感覚的確信にあって思いなしているものを、そのとおりには語ることがないのである。ことばにすることで、私たち自身が直接に自分の思いなしを反駁するからだ」(ヘーゲル『精神現象学』)。

言語は本質的に普遍化の装置であり、個別的で一回的な経験をそのまま保存することができない。これは言語の欠陥というよりも、言語というものの根本的な構造にほかならない。

詩人たちは、この言語の限界をそれぞれの仕方で主題化してきた。谷川俊太郎は「コップへの不可能な接近」において、日常的な対象であるコップを徹底的に記述しようと試みるが、「それが本当はなんなのか——誰も正確な知識を持っているとは限らないのである」という結論に至る(谷川俊太郎『谷川俊太郎詩選集2』)。どれほど精密に記述しても、言語はコップそのものに到達できない。

田村隆一は「帰途」において、より直截にこの苦悩を表現する。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

そして同じく田村の「言葉のない世界」では、「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」という逆説が掲げられる(田村隆一『腐敗性物質』)。言葉を用いて言葉のない世界を目指す。この逆説こそが、哲学と文学の共通の困難を端的に示している。

哲学の文脈で詩人を引き合いに出すのは奇異に思えるかもしれないが、本来表現したいものに言語を通じて迫ろうとしながら、言語の制約によってそれが完全には実現しえないという事態に直面している点において、詩人と哲学者の立場は同じである。

沈黙と表現の生成

では、哲学はこの言語の限界をどのように乗り越えうるのか。

ヴァレリーの経験が示唆的である。ヴァレリーは最高の詩人たち、ポー、ランボー、マラルメを読み、その方法を分析した結果、「最も美しい幻想に出会うのは、つねに、彼らの生成と創造の原点においてである」ことを発見する。だが同時に、もはや新たな魔術をどこに見出せるのかという問いに行き詰まり、文学への深い幻滅に陥った。

この幻滅と、恋愛の苦悩が重なり合った末に、ヴァレリーは1892年の「ジェノヴァの夜」と呼ばれる精神的危機を体験する。「恐ろしい夜。ベッドに座ったまま夜を明かす。[...]私は私と私の間にある」。この危機を経て、ヴァレリーは「すべての偶像をアウトローと宣言するに至った」。彼は諸々の偶像を「ただ一つの偶像、他の偶像を従属させるために必要な唯一の偶像、知性の偶像の生贄にした」のである(以上、ミシェル・ジャリティ『ポール・ヴァレリー』による)。

ここで重要なのは、ヴァレリーがこの危機の後、文学を完全に放棄したのではなく、半世紀にわたって『カイエ(覚書)』を書き続けたという事実である。それは既成の文学形式への回帰ではなく、「個人的なエクリチュールの空間」の開拓であり、「思考が、ひたすら個人的なカテゴリーに従って展開し」、既成の表現形式とは別の仕方で思考と言葉の関係を模索する営みだった。ヴァレリーの沈黙は、言葉の放棄ではなく、言葉の別の可能性への転換だった。

メルロ=ポンティは、この種の経験を理論的に捉え直す。彼によれば、日常的な言語は「表現の決定的な一歩がすでに完了してしまっていることを前提としている」。既成の語彙と文法の体系は「語られた言葉」であり、それは過去の表現行為の「沈殿」にすぎない。真の哲学的表現は、「言葉のざわめきの下に原初的沈黙を再び見出さない限り、この沈黙を破る最初の所作を記述しない限り」不可能なのである(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)。

さらに、メルロ=ポンティは「表現のパラドックス」と呼ぶべき事態を指摘する。「『構想』が『実行』に先立つことはありえない。表現以前には漠然とした熱気以外の何ものもなく、ただ作り上げられ理解された作品だけがそこに無ではなく何ものかを見出さねばならないということを証明するだろう」。つまり、哲学的真理は表現される以前には「漠然とした熱気」として存在するにすぎず、表現を通じて初めて明確な形を獲得する。真理は表現に先立って完成した形で存在し、それを言語が忠実に写し取るのではない。真理は表現の過程において生成するのである(メルロ=ポンティ『意味と無意味』)。

「厳密に書ける」という反論の検討

ここまで、言語の限界と文学的表現の必要性について論じてきた。だが、哲学は文学的表現を必要としないという反論も検討しておく必要がある。この立場は主に三つの論点から構成される。

第一に、ウィトゲンシュタインの「戦略的撤退」という解釈がある。 「語りえぬものについては沈黙せねばならない」は、文学への逃避ではなく、哲学の領域を明確に限定することで、その領域内では厳密に語りうるという戦略的な撤退として読める。彼は「すべての哲学は『言語批判』である」と述べ、言語の論理を理解することで無意味な問いを排除しようとした。この立場に従えば、哲学は自らが厳密に語りうる範囲に自己を限定すればよいのであり、文学的表現に頼る必要はない。

しかし、この戦略には代償がある。哲学にとって最も重要な問題の多くが「語りえぬもの」の側に属することになる。ウィトゲンシュタイン自身が認めているように、「たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう」。倫理、美、人生の意味といった問題を哲学の領域から放棄することは、哲学の本来の使命を自ら断念することにほかならない。

第二に、現象学的「記述」による厳密さの追求という立場がある。 メルロ=ポンティ自身が「記述すること〔décrire〕が問題であって、説明すること〔expliquer〕や分析すること〔analyser〕は問題ではない」と述べている(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)。これは客観的で厳密な記述によって哲学が成り立つという主張とも読めるかもしれない。

だが、メルロ=ポンティのいう「記述」は、科学的な客観的記述とは異なるものである。彼が記述しようとするのは「知覚の逆説的性格」であり、それは「常識とは正反対のことを言います」。たとえば、眼前の道の両側が遠近法的に収斂して見えることと、実際には平行であることは、日常の知覚においては矛盾なく共存している。この種の「逆説的」な経験を記述するためには、「明晰ないし単純な観念に甘んじること」を拒否し、通常の言語使用を超えた創造的な表現が不可避的に要請される。メルロ=ポンティの「記述」は、文学的表現の排除ではなく、むしろその必要性の根拠なのである。

第三に、形式言語による曖昧さの排除という方向がある。 現代の分析哲学が論理記号や形式言語を用いて多義性を排除しようとするのは、この方向性に沿ったものである。

しかし、ベルクソンが指摘した言語の固定化という問題は、形式言語においていっそう先鋭化する。形式言語は曖昧さを排除する代わりに、人間の生きた経験からの距離をさらに広げる。経験の流動性を論理式に還元することは、経験についての精密な操作を可能にするとしても、経験そのものを捉えることとは異なる。哲学の目的が世界の論理的構造の解明に限定されるならば形式言語で足りるかもしれないが、人間の生の意味を問うことが哲学の課題であるならば、生きた経験に触れうる表現形式が別途必要になる。

結論

以上の考察から、哲学は文学的表現を必要とすると結論づけることができる。

第一に、 哲学が扱う根源的な問題は、既存の言語体系では十分に表現できない。ハイデガーが存在を語るために「文法」そのものの不在を認め、「思索と詩作」の連携を求めたように、哲学者は常に言語の限界に直面する。これは哲学者の言語運用能力の問題ではなく、思考と言語の本質的な関係に根ざすものである。

第二に、 言語は本質的に経験を固定化し普遍化する装置であり、個別的で流動的な経験をそのまま保存することができない。ベルクソンが示したこの言語の性質を踏まえるなら、その限界を超えて経験に迫るためには、言語を創造的に用いる工夫が不可欠である。メルロ=ポンティが示したように、哲学的真理は表現に先立って完成した形で存在するのではなく、表現を通じて初めて生成する。適切な言語形式を見出すまで、哲学的洞察は「漠然とした熱気」にとどまる。

第三に、 哲学の目的が単なる論理的整合性の追求ではなく、人間の生の意味を問うことにあるならば、生きた経験を捉えうる表現形式が必要である。それは、論理的命題の連鎖だけでは実現できない。感情と理性、身体と精神が絡み合った人間の実存を語るためには、想像力と感性に訴える表現が求められる。メルロ=ポンティが「真の哲学とは、世界を見ることを学び直すこと」であり、「話された物語も哲学の論文と同じだけの『深さ』で世界を意味することができる」と述べたのは、このことを指している(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)。

興味深いのは、文学的表現を最も激しく批判したプラトン自身の実践である。彼は詩人を理想国家から追放すべきだと主張しながら、自らは対話篇という文学的形式を選び、洞窟の比喩、イデアの太陽、魂の馬車といった比喩を駆使した。ソクラテスの最期を描いた『パイドン』は、哲学的議論であると同時に文学作品としても成立している。

このプラトンの「矛盾」は、実は矛盾ではない。彼の言行の不一致が論理的に不整合であるのは不注意によるものではなく、むしろ哲学の本質を体現している。哲学は厳密な論理を求めるが、それが目指す真理は人間の全存在に関わるものである。そのような真理を語るためには、理性だけでなく想像力に訴え、論理だけでなく感性に響く言葉が求められる。哲学と文学は対立するものではなく、人間の真理への異なるアプローチとして相補的な関係にある。

冒頭に戻ろう。ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と述べた。だが哲学の使命は、まさにその「語りえぬもの」に向かって語り続けることにある。そしてその営みにおいて、文学的表現は不可欠の手段となる。なぜなら、文学的表現こそが、論理的言語の限界を超えて、語りえぬものに触れる可能性を開くからである。


参考文献

  • プラトン『国家(下)』藤沢令夫訳, 岩波文庫, 2008年
  • アリストテレス『詩学』松本仁助・岡道男訳, 岩波文庫, 1997年
  • ヘーゲル『精神現象学』熊野純彦訳, ちくま学芸文庫, 2018年
  • ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』合田正人・平井靖史訳, ちくま学芸文庫, 2002年
  • ベルクソン『思想と動くもの』河野与一訳, 岩波文庫, 1998年
  • ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳, 岩波文庫, 2003年
  • ハイデガー『存在と時間』原佑・渡邊二郎訳, 中央公論新社, 2003年
  • ハイデガー『ヒューマニズムについて』渡邊二郎訳, ちくま学芸文庫, 1997年
  • メルロ=ポンティ『知覚の現象学』竹内芳郎他訳, みすず書房, 1967-74年
  • メルロ=ポンティ『意味と無意味』滝浦静雄他訳, みすず書房, 1983年
  • メルロ=ポンティ『知覚の哲学 ラジオ講演1948年』菅野盾樹訳, ちくま学芸文庫
  • クラーフト『ウィーン学団』寺中平治訳, 勁草書房, 1990年
  • 谷川俊太郎『谷川俊太郎詩選集2』集英社文庫, 2005年
  • 田村隆一『腐敗性物質』講談社文芸文庫, 1997年

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