フィルムで写真を撮ってみた

フィルムで写真を撮ってみた
通ぶって冷蔵庫内に置いてみる

Kodak Ultramax

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最初の一枚。

大学に行く前に撮った一枚。

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ハンドルを握る場所はそこなの?!

ぶらぶらしていたら目に入ったかわいい置物。

さびは経年劣化だと思うんだけれど、いい味出してるよねぇ。

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うっそうと生い茂った植物たち。

実に青々とうつるフィルムだね。

遥か未来の失われし文明痕みたいで。

かしゃっ。

うだるほど暑い夏に公園で一息つくのが好きなんだよね。

お散歩するときにもよく寄ります。

頭上にまでせまる木の枝が気になったものだから撮ってみたら、赤いペットボトルのキャップかな?いいアクセントなこと。

それに、ボケてる感じ、めちゃくちゃ好きかも。

ゆったりした時間みたいなのを取りたかったのだけれど、空が露出オーバーでなんかどんよりしちゃったね。

ぴんぼけさ

とんぼ。

実はこのレンズ、テレ端ではピントが合わないみたい。

ピンとリングが止まるまで回してもボケてるw

まあそこも愛嬌かな。

それでもピントは奥に。

さっきの写真はピントが合ってないのにもかかわらずシャッターが切れちゃったものだから、悔しくて、トンボを見かけたときにすかさずもう一枚。

背景とか色合いはコンクリートって感じ。

素晴らしいパステルカラーね。

公園でも目を凝らすと枝先にポツンとトンボが止まっていたのでこちらもぱしゃっ!

空と葉っぱの色合いがフィルムらしいパステルカラーできれいだね。

さわやか、とも違うか。

独特でいいねえ。

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よお、はとくん。

自室から。

ぼんやり景色を眺めていたら、電線に止まっていたので。

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晴天。

素晴らしくきれいな色合いだね。

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近隣住民の洗濯物かな。

風の強いある日。

買い物帰りになんか視界の端でばさつくものがあるなあと見上げてみれば、なんとまあ。

噂には聞くけれども、洗濯物って本当に吹き飛んで電線とかに引っかかるものなんだねえ。

私も気を付けよう。

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大学で調べ物をした後、図書館から出てきて驚く。

なんだかやたらと空が赤紫色に染まっていたものだから、フィルムではどんな色に写るのだろうと。

今となっては当時の色が思い出せない。

しかし、きれいであることは伝わるし、これで記録にもなった。

写真っていいねえ。

とくに、時間差があると。

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Kodak UltramaxのISO感度は400なので、もしかして頑張れば夜景もいけるんじゃね?と。

やっぱりISOは1600ぐらい必要かもね。

それに、カメラの露出計とノリで露出を決めたのも雑すぎた。

やっぱり夜はストロボを焚いて近いものを撮ろう。

とはいえ、これはこれでいい感じじゃない?

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反射率の高い道路標識をメインに月を撮ればシャッタースピードも上げられる!と思ったのもつかの間。マニュアルではなくプログラムシフトになっていたので、長秒露光に。

頑張って抑えたけれども、手振れがぁ。まあ、一応何が写っているかわかるからヨシ!

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あんまりよくわからなかったが、とりあえずストロボを焚いてみた。

夜中に土砂降りの雨が降ってきたので、なんとか土砂降りの様子を取りたいと思った。

うーん、雨粒ってなんか違うよなあ。

それに、地面を写してもなんかちがうよね。びっしょびしょになって川みたいになっているのだけれど、それを写すのは難しいね。

いっそ三脚を据えて、スローシャッターでぼんやりな感じに写せばいいのかな?

Kodak Gold

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野良猫なんだろうか、それとも飼い猫なんだろうか。

近所の猫。

猫が寄ってくれないものだから、さっぱりわからない。

猫が寄ってくる人もいるが、違いは何なのだろう。

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山に雲がかかって霞んでいる様子がきれいで。

風が強く、見る間に景色が変わっていく様子が美しかったのだけれど、写真ではどう撮ることでその感動が映しこめるのだろうね。

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最初は電線がなければ!と思ったものだが、じっくり見ていると、電線もアクセントに思えてくる。

山の上の電波塔が雲でぼんやり隠れているのが、なにかアニメにいるような気持ちにさせてくれる。

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ほんわり暖かい夕方。

日が暮れて、あたりが暗くなる前のひと時。

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青い空に赤い花!

太陽はほとんど沈んで、いまや雲を照らすだけ。

花に露出を合わせるべきだったかな?

シルエットのようで、これもいいか。

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若干の手振れもかわいいね。

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おうちに帰って昼食よ。

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盛大にフレアを画面に入れてみた。

まったく意図していなかったが、ヤシの木?のてっぺんが太陽になっていて、なんか風情があるじゃないか。

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さて、Kodak Goldで撮った公園はどうだろう。

こちらのほうが色のコントラストが控えめで、穏やかな気持ちになる。

しかしまあ、フィルムで写真を撮ると、当然デジタル補正がないものだから、レンズのゆがみがよくわかること。

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日陰から日向が見える感じが好みなのだが、写真としての写りは、どうだろうね。

もうすこし右下の暗い部分を減らしてもよかったかもしれないが、これはこれで岩の表面が見えていい気もするね。

ごつごつ。

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真夏の暑い感じではなく、あくまで夏のさわやかな感じをお届けしたい。

日彼の漏れ出る感じが撮れただろうか。

日陰の涼やかな感じもKodak Goldのほうが好きかもしれない。

単に見慣れているだけかもしれないが。

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こうした淡い色合いの花なんかも、柔らかくて心地よい。

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こんな車にもスマホホルダーがあるのはシュールだ。

近所のスーパーになんかかっこいい車が止まっていた。

最後に地図を持ち歩いたのはいつだろう。半年前かもしれない。(あれ?意外と最近だな。)

マップアプリの便利さは手放せないよねえ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

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綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu