AIの文章に価値はあるか
AIが生成した記事や、AIとのチャット履歴がネットに溢れている。そしてその大半は、正直なところ、読む気にならない。
AIの記事はなぜ退屈なのか
不思議なことに、AIとの対話は当人にとっては有意義であることが多い。問いを投げ、応答を得て、考えを整理する。その過程には確かな手応えがある。だが、同じやり取りを第三者が読むと、途端に退屈になる。
この落差はどこから来るのか。
AIとの対話で当人が得ているのは、「自分の問い」に対する応答だ。その問いの背後には、これまで何を考え、何に引っかかり、何を言語化できずにいたかという厚い文脈がある。応答がその文脈の上に載ることで、初めて対話に意味が宿る。
第三者にはその文脈がない。文脈を欠いた応答は、ただの情報の羅列だ。
ここに本質的な理由がある。多くのAI生成記事は「誰かの視点」を持たない。何を選び、何を捨てたかという編集の痕跡がなく、あらゆる方向に平等に情報が並ぶ。結果として、誰が書いても同じになるような文章が量産される。誰のものでもない文章は、読者に語りかけない。
シェイクスピアと猿
視点を変えてみよう。
有名な思考実験がある。猿がキーボードをランダムに叩き続ければ、天文学的に低い確率ではあるが、いつかシェイクスピアの戯曲と全く同じ文字列が出力される。仮にその文字列を手に取ったとして、シェイクスピアの手によるものか猿の偶然の産物かを知らなければ、受ける感動は同じではないか。
ある小説に人生を変えるほど心を動かされたとする。その後で「実はAIが生成した文章だった」と知ったら、あの感動は無効になるだろうか。
私は、ならないと思う。
絵画について考えてみる。一枚の絵が美しいと感じるとき、その美しさは作品そのものに宿っている。丹念に筆を重ねた油彩であっても、眠りかけの画家が夢うつつに描いた落書きであっても、涙ぐましい逸話を持つ大作であっても、美的体験それ自体は変わらない。制作の背景は、鑑賞の体験に必ずしも影響を及ぼさない。
文章も同じだ。テキストは、書かれた瞬間に書き手の手を離れる。読者の前に差し出された言葉は、その出自から独立している。
電子のゴミ
少し話が変わる。
現代において、書く行為の大半はデジタルだ。文章も、写真も、音楽も、物理的に言えばCPUの演算とストレージへの電子の配置に過ぎない。画面が消えれば消え、機器が壊れれば失われる。LEDの発光パターン。インクのシミ。どちらも物理現象だ。
自分が生み出すものをすべて「電子のゴミ」と呼ぶのは、自嘲ではあるが、嘘ではない。
自分にとって切実な価値を持つ文章も、他の誰にとってはゴミかもしれない。そして、自分にとってすら価値がなくなったとき、それは文字通りゴミになる。テキストの物理的実在には、固有の意味など宿っていない。
意味を吹き込むのは読者だ
では、意味はどこから来るのか。
文字列そのものには意味はない。バイト列に意味が内在しているわけでも、インクの配列に思想が刻まれているわけでもない。
意味は、読者がテキストに自分の文脈を重ねることで生じる。同じ一文を読んでも、読者の経験、知識、問題意識によって、受け取るものは全く異なる。
意味を吹き込むのは、あなた自身だ。
これはAIの文章に限った話ではない。人間が書いた文章であっても、読者の関与なくして意味は成立しない。テキストは意味の器であり、読者がそこに何を注ぐかによって、器の中身は変わる。
シェイクスピアの戯曲が数百年にわたって読まれ続けるのは、テキストに「正しい意味」が封入されているからではない。時代ごとに異なる読者が、それぞれの文脈からテキストに新たな意味を見出し続けるからだ。
二つの価値
ここで、一つ重要な区別をしておきたい。
テキストの価値には二つの側面がある。
読者にとっての価値。 これは先に述べたように、テキストの出自に依存しない。人間が書いたか、AIが生成したか、猿が偶然叩き出したかは、読者の体験にとって本質的ではない。読んで何かを得たなら、それは読者にとって価値がある。
書き手にとっての価値。 書くことで思考が整理され、曖昧な感覚に形が与えられ、「わたし」という存在が輪郭を持つ。この価値は書く行為そのものに内在しており、完成したテキストには残らない。
AI記事が退屈に感じられる根本的な理由は、この第二の価値が不在であることだ。AIの出力には、「何かを選び、何かを捨てた」という選択の重みがない。読者はそこに「誰か」の存在を感じ取ることができず、テキストに自分の文脈を重ね合わせる手がかりを見つけにくい。
ただし、逆も言える。AIの出力を読み、選び、自分の思考と突き合わせて再構成したものは、もはやAIの文章ではない。その編集行為に、書き手の主体が宿っている。
書くことと読むこと
書く側にとって、書くことは自己を存在させる行為だ。散乱した素材が一つの形を取り、「わたし」が対話可能な存在として立ち現れる。
読む側にとって、読むことは意味を生成する行為だ。テキストの出自は問わない。自分の文脈と交差させることで、テキストは読者にとって固有の意味を持つようになる。
だから、AIが書いた文章であっても、そこに意味はありうる。誰が書いたかは、読者にとっては最終的に問題ではない。
ただし、書き手にとっては、書く行為そのものに代替できない価値がある。AIに任せることで効率は上がるかもしれないが、「書くことで自分を知る」という体験は消える。これは効率とのトレードオフではなく、全く別の次元の話だ。
AIが書いたものを読むことには価値がありうる。しかし、自分で書くことの価値は、それとは別のところにある。
書くことは、自分が何者であるかを発見する、最も確実な方法の一つだから。