優しい人から壊れる

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友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。

それは美しい光景だ、と誰もが言う。

ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。

スポットライトの外は暗い

共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。

イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。

ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、より強く発動する。共感は公平な道徳のガイドではない。むしろ、偏りそのものだ。

ブルームは共感を全否定したわけではない。共感が人を行動に駆り立てる力を持つことは認めている。ただ、その力の向く方向が、あまりにも恣意的だと言った。

あなたがニュースで遠い国の悲劇に胸を痛めるのに、隣の席で泣いている人に気づかないのは、共感の欠如ではない。共感の構造そのものだ。スポットライトは、あなたが当てたい場所ではなく、勝手に当たりたがる場所を照らしている。その外側では、何人死のうと数字にしかならない。

境界が溶ける道徳

共感が偏っているという指摘とは、まったく逆の方向から道徳を語った哲学者がいる。

アルトゥル・ショーペンハウアーは1840年の著作『道徳の基礎について(Über die Grundlage der Moral)』で、道徳の根拠をただ一つだけ挙げた。Mitleid。日本語では「同苦」あるいは「共苦」と訳されることが多い。他者の苦しみを、自分のものとして感じること。これだけが道徳的行為の唯一の動機であると、ショーペンハウアーは論じた。

カントのように理性から義務を導くのでもなく、功利主義のように幸福の総量を計算するのでもない。他者の苦しみを前にして、自他の境界が溶け、その痛みがこちらに流れ込んでくる。その瞬間にだけ、道徳は成立する。

しかし、少しだけ立ち止まってほしい。

ショーペンハウアーの倫理学は、彼の形而上学と切り離せない。世界の本質は盲目的な「意志(Wille)」であり、あらゆる個体はその意志の現れにすぎない。個体間の区別は、究極的には幻想だ。だから他者の苦しみを感じるというのは、同じ意志の別の現れに共鳴しているだけのことになる。

つまり、Mitleidの前提には、あなたと他者の区別は本当はない、という形而上学的な賭けがある。他者の苦しみを感じるとは、個としての境界が崩れることだ。しかし境界が崩れたところで、あなたが本当に他者を知りうるかは、また別の問いだ。

境界が崩れた場所には、優しさと崩壊が同じ顔をして立っている。

善意が食い荒らすもの

ここで哲学の外に出る。

共感疲労(compassion fatigue)という概念がある。心理学と医療の領域で1990年代から使われてきた用語で、他者の苦しみに継続的に晒されることで生じる情緒的消耗を指す。二次的外傷性ストレスと蓄積的な燃え尽き(バーンアウト)が重なった状態として記述されている。

看護師、介護者、ソーシャルワーカー、救急隊員。他者のために働く人が、他者のために壊れる。共感という能力が、共感する側を静かに蝕んでいく。

症状は地味だ。疲労、不眠、集中力の低下、感情の鈍麻、皮肉っぽくなること、対人関係の摩擦。派手に倒れるのではなく、少しずつ色が抜けていくように消耗する。

ここで、ショーペンハウアーとブルームが奇妙に交差する。

ショーペンハウアーは、他者の苦しみを感じることが道徳の基盤だと言った。ブルームは、それが判断を歪めると言った。共感疲労は、そのどちらの言い分も正しいことを、もっとも残酷なかたちで裏書きしている。他者の苦しみを感じ続けた結果、感じる力そのものが壊れる。道徳の基盤が、道徳的に振る舞おうとした人を、内側から食い荒らす。そしてその消耗の果てに何かが残るかといえば、苦しみは何も教えない。

優しい人ほど壊れやすいというのは、きれいごとではない。構造の話だ。

正しい距離はない

ある人が、意識的に距離を置く。友人の愚痴を「今日はもう聞けない」と断る。ニュースアプリを消す。他者の問題に深入りしない。

これは「冷たい」ことだろうか。

ブルームは、共感の代わりに「合理的な思いやり(rational compassion)」を提案した。相手の苦しみに巻き込まれるのではなく、相手にとって何が最善かを冷静に考え、行動すること。感情に溺れずに、助ける。

理屈としては正しい。しかし、この提案にはどこか致命的に味気ないところがある。

「あなたの苦しみは理解しています。でも、感じてはいません」。そう言われた側が何を思うか、考えたことがあるだろうか。正しさと温かさが両立しないこの構造は、共感という概念が最初から抱えていた矛盾そのものなのかもしれない。

感じれば壊れる。感じなければ届かない。適切な距離というものがあるとして、それはどこにあるのか。そしてその「適切さ」は、あなたを守るための距離か、相手を守るための距離か。どちらの距離を選んでも、孤独は治らない。

共感しないという罪

もう一つ、厄介な問いがある。共感は「能力」か「選択」か。

目の前で誰かが泣いていれば、反射的に胸が痛む人がいる。一方で、冷静にそれを眺められる人もいる。前者が善で後者が悪だとは、一概に言えない。ブルームの議論に従えば、感情に巻き込まれない後者のほうがむしろ合理的な判断を下せる場面もある。

しかし、もし共感が選択だとしたら。共感しないことを選ぶのは、道徳的に許されるだろうか。

逆に、もし共感が能力だとしたら。共感できない人は、道徳的に欠陥を抱えているのか。反社会性パーソナリティ障害の臨床的特徴に共感の欠如が含まれるのは、共感を道徳の必要条件とみなす前提に立っている。だが、共感なしに正しい行動をとれる人間がいるなら、その前提そのものが揺らぐ。

ショーペンハウアーなら、Mitleidを伴わない行為に道徳的価値はないと言うだろう。ブルームなら、共感しないほうが道徳的に正しい場合もあると言うだろう。どちらの立場を取っても、残りの半分が影になって、足元に落ちている。そもそも共感が能力でも選択でもなく、脳の配線が決めた必然だとしたら、誰のせいでもない。

仕様通りに壊れていく

災害のニュースに心が痛まなくなってきた。他人の不幸を聞いても、前ほど揺れなくなった。友人の悩みに、以前ほど真剣になれない。

これは「慣れ」なのか。「防御」なのか。それとも、もっと根本的に、何かが擦り切れてしまっただけなのか。

ここで最も不快な可能性を一つだけ置いておく。

共感という機能は、もともと長く使い続けるようにはできていないのかもしれない。進化の過程で獲得されたこの反応は、小さな集団の中で、近しい他者を助けるために設計されたものだ。見知らぬ数百万人の苦しみを毎日スクリーン越しに浴びるような使い方は、そもそも想定されていない。私たちは誰かを求めるように進化しながら、誰にも届かないように設計されている。

スポットライトが狭いのは、欠陥ではなく仕様だ。

あなたが鈍くなったのではない。ただ、設計通りに動いているだけだ。そして、設計通りに動いた結果として、隣にいる誰かの苦しみに気づけなくなる。設計が正常に機能した帰結が、誰かの孤立であるということ。これを欠陥と呼ぶべきなのか、正常と呼ぶべきなのか、おそらく誰にもわからない。

あなたはどちらを失うか

共感すれば壊れる。共感しなければ冷たい。距離を置けば自分は守られるが、距離の向こう側にいる人は守られない。愛さなければ傷つかないが、愛さなければ届かない。能力だとすれば不公平で、選択だとすれば残酷だ。

ショーペンハウアーは他者の苦しみを感じることの中に道徳を見た。ブルームはその感じ方にこそ歪みを見た。共感疲労の研究は、感じ続けた人の末路を淡々と記録した。どの答えも、別の問いの入り口でしかなかった。

友達の愚痴を聞いていて疲れたことがあるだろう。災害のニュースをスキップしたことがあるだろう。そのとき、わずかに罪悪感があったはずだ。

その罪悪感は、たぶん正しい。あなたが何かを手放した痕跡だから。ただ、手放さなければ壊れていた。それもまた、たぶん正しい。

感じるか、感じないか。どちらを選んでも、あなたは何かを失う。そして、何を失ったのかに気づいた頃には、もう取り返しがつかない。

それでも明日、誰かがあなたの隣で泣く。あなたはまた、背中に手を伸ばすかどうかを、ほんの一瞬だけ迷う。

その一瞬が、たぶん、全部だ。

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