孤独は治らない

あなたがこの文章を読んでいる今、おそらくひとりだろう。スマートフォンの画面か、PCのモニタか、いずれにしても、その光はあなただけの顔を照らしている。

安心してほしい。この記事は、あなたの孤独を癒さない。

孤独について書かれた文章は世の中に山ほどある。「孤独を楽しもう」、「ひとりの時間は自分を見つめ直すチャンス」。そういった言葉が、まるでビタミン剤のように処方される。けれど、それで治った人を見たことがない。見たことがないのは、孤独が病気ではないからだ。もっと正確にいえば、孤独は人間の初期設定だからだ。

治らないものを治そうとするから、苦しい。

ひとりでいることと、ひとりであること

一人でいることと孤独は同じだろうか。

答えは、たぶん、いいえだ。カフェで一人で本を読んでいるとき、あなたは一人だが、孤独ではないかもしれない。一方で、友人に囲まれた飲み会の真ん中で、ふと自分だけが透明になったような感覚に襲われることがある。周囲の笑い声が、自分とは無関係な音楽のように聞こえる瞬間。

あれは、孤独だ。

ハンナ・アーレントは、この感覚の違いに名前をつけた。彼女はsolitudelonelinessを明確に区別する。solutudeとは、ひとりでありながら自分自身と共にいること。自分のなかで対話が生まれ、思考が動き出す状態だ。一方、lonelinessとは、誰かを求めているのに誰もいない状態。自分自身との対話すら失われ、世界から切り離される感覚。アーレントは『全体主義の起原』において、この後者を全体主義の温床とまで論じた。人が自分自身との対話を失い、思考する力を手放したとき、全体主義はそこに入り込む。

人は、solitudeのなかでこそ思考する。lonelinessのなかでは、思考すらできなくなる。

この区別を聞いて安心しただろうか。しないでほしい。なぜなら、あなたが今感じているものがどちらなのか、あなた自身にもたぶんわからないからだ。

一万人のフォロワーと誰もいない部屋

SNSは孤独を解決したか。

しなかった。むしろ新しい種類の孤独を発明した。

タイムラインには誰かの声が絶えず流れている。「いいね」を押せば、つながった気がする。リプライが返ってくれば、そこに人がいると感じる。しかし画面を閉じた瞬間、部屋は静かだ。一万人のフォロワーがいても、夜中の3時に電話をかけられる相手がいるかどうかは、まったく別の問題だ。

つながりの量と質は違う。これはほとんどの人が頭では理解している。理解していて、それでもフォロワー数を気にする。通知の赤い点に安堵する。既読がつかないことに不安になる。

なぜか。

たぶん、量のほうが計測しやすいからだ。質は目に見えない。「深いつながり」とは何かを定義できる人はいない。定義できないものを求めて、定義できるもので代用する。代用品に囲まれて、なお満たされない。

あるいは、もっと単純な話かもしれない。つながりとは、相手が自分を認識しているという実感のことだ。SNSでは、あなたは情報の送り手であり、同時に受け手だが、「あなた」として認識されているかどうかは、かなり怪しい。あなたのアイコンと、あなた自身は、同じだろうか。

ひとりでいられるという残酷な才能

精神分析家のD・W・ウィニコットは、1958年の論文「ひとりでいられる能力(The Capacity to Be Alone)」で、ひとつの逆説を示した。ひとりでいられる能力は情緒的成熟とほぼ同義であり、それは幼少期に、安全な他者の存在のもとで「ひとりでいる」経験を積むことで発達する。

つまり、ひとりでいられるようになるためには、かつてそばに誰かがいなければならなかった。

ここで少し立ち止まってほしい。もしこれが正しいなら、ひとりでいられない人は、かつてその安全な経験を持てなかった人だということになる。孤独に耐えられないのは、弱さではない。与えられなかった環境の問題だ。

けれど、それを知ったところで、今さらどうしろというのだろう。

ウィニコットの理論は美しい。美しいが、残酷だ。ひとりでいられる能力が成熟の証なら、ひとりでいられない人は未熟だということになる。そしてその未熟さの原因は本人の手の届かない場所にある。幼少期はやり直せない。

孤独を楽しめる人と、孤独に潰される人がいる。その差がどこから来るのかを突き詰めると、自分ではどうにもならない場所に行き着く。これは救いだろうか。呪いだろうか。たぶん、どちらでもない。ただの事実だ。事実は、いつだって冷たい。

死ぬのはいつもひとり

マルティン・ハイデガーは、人間の存在を「死への存在(Sein zum Tode)」として描いた。『存在と時間』のなかで彼は、死を人生の終わりに訪れる出来事としてではなく、生きている限りつねにそこにある可能性として論じた。果実が熟していくように、人間は生きながらにして死に向かっている

そして決定的に重要なのは、死は誰にも代わってもらえないということだ。ハイデガーの用語で言えば、存在はつねに「各自のもの(jemeinig)」である。誰かがあなたの代わりに死ぬことはできない。あなたの死は、どこまでいっても、あなただけのものだ。

これは何を意味するか。

どれだけ深い関係を築いても、どれだけ誰かと時間を共有しても、最後の瞬間にあなたはひとりだということだ。ハイデガーの議論は、日常の「ひとりぼっち」とはスケールが違う。彼が言っているのは、存在の構造そのものが孤独を含んでいるということだ。人間は根本的に、誰とも共有できない何かを抱えて生きている。

ここまで来ると、孤独を「解決」するという発想そのものが、どこか的外れに思えてくる。解決すべき問題ではなく、存在の条件そのものなのだとしたら、私たちにできることは何だろう。

何もないのかもしれない。

満員電車のなかの完璧な孤立

もう少し地上に降りてこよう。

一人暮らしの世帯は増えている。リモートワークで誰にも会わない日がある。物理的に「ひとり」でいる時間は、おそらく人類史上もっとも長い。けれど、物理的に一人でいることと孤独は、先に書いたように同じではない。

満員電車に揺られているとき、あなたの周囲には数十人の人間がいる。しかし、その誰ともあなたは関係を持たない。全員がスマートフォンを見ている。イヤホンをしている。目を閉じている。あなたもそうだ。数十人の人間が、同じ空間で、それぞれ完璧にひとりでいる

一人で映画を観に行けるかどうか。一人で焼き肉に行けるかどうか。そういう問いがSNSでときどき話題になる。面白い問いだが、問いの核はそこにはない。核は、「一人でいること」を恥ずかしいと感じるその感覚がどこから来るのか、ということだ。

一人でいることは社会的な失敗の証拠だろうか。誰かと一緒にいることは成功の証拠だろうか。一人で食事をしている人を見て「あの人は孤独だ」と思うとき、そう思っている自分のほうが、もしかしたらよほど孤独かもしれない。他人の状態を「孤独」だとラベリングできるのは、自分がその感覚をよく知っているからだ。

答えのない問いの墓場

ここまで読んで、何か答えが得られると思っただろうか。

残念ながら、ない。最初に書いた通りだ。孤独は治らない。

けれど、問いだけは残る。問いだけが、際限なく増殖する。

もし一生誰とも会えないが、あらゆる娯楽にアクセスできるとしたら、あなたは耐えられるだろうか。孤独は「悪い」ことなのか。孤独がなければ生まれない思考があるとして、その思考には孤独の苦痛に見合うだけの価値があるのか。人間は本質的に孤独な存在なのか。それとも、孤独とは人が集まって社会をつくったせいで初めて生まれた概念なのか。

もし後者だとしたら、社会こそが孤独の原因だということになる。人が人とつながるようになったから、つながれないという苦しみが発明された。もし人間がもともと一匹で生きる動物だったなら、「孤独」という言葉は存在しなかったかもしれない。

つまり、孤独は人間が人間であることの代償だ。つながりを求める能力と、つながりきれない現実のあいだに、永遠に閉じない裂け目がある。

その裂け目に名前をつけたのが「孤独」で、その裂け目を埋めようとする営みが「生きること」で、そして裂け目は最後まで埋まらない。

この記事も、あなたをひとりにする

ここまで読んで、少しでも「わかる」と思ったなら、それはあなたが孤独を知っているからだ。知らない人はとっくに閉じている。

共感は孤独の裏返しだ。誰かの孤独に共感できるのは、自分が同じ場所にいるからだ。けれど、共感したところで、あなたの孤独は一ミリも解消されない。「同じ気持ちの人がいる」と知ることは、ほんの一瞬だけ温かいかもしれないが、画面を閉じればまた元通りだ。

この記事は、あなたに何も与えない。

ただ、もしあなたが今夜、少しだけ長く天井を見つめることになるなら、それはたぶん、まだ何かを求めている証拠だ。孤独を感じられるのは、まだ世界に期待しているからだ。何も求めなくなったとき、孤独すら消える。それは孤独の解消ではない。もっと静かな、別の何かの終わりだ。

問いは残る。答えはない。あなたはひとりだ。

それだけが、どうしようもなく、確かなことだ。

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