世界にあなたひとり、ぽつんと。

ある日、目が覚めたら、世界から自分以外の人間がすべて消えていた。

よくある思考実験だ。飲み会の余興にもなる。「好きなことをする」、「世界中を旅する」、「何もしない」。大抵はそんな答えが返ってくる。楽しそうだ。少なくとも最初の数日は。

でも考えてみてほしい。その「好きなこと」の大半は、他者がいてこそ成り立っていたのではないか。旅先の話を聞いてくれる誰か。おいしいものを一緒に食べる誰か。仕事を辞められる開放感だって、仕事という拘束があってこそ感じられる。他者が消えた瞬間、あなたの欲望のほとんどは行き場を失う。

この問いの核心は「何をするか」ではない。「あなたは、自分の生活のうち、どれだけを他者の存在に依存していたか」だ。

「好きなことをする」という幻想

最初の1週間はおそらく楽しい。誰の目も気にしなくていい。どこにでも入れる。何でも手に入る。でも2週目あたりから、奇妙な空虚がしのび寄ってくるはずだ。

やりたいことリストを全部消化した後に、何が残るだろう。

ハンナ・アーレントは『人間の条件』(1958年)の中で、人間の根本的な条件のひとつとして「複数性(plurality)」を挙げた。複数性とは、単に「人が大勢いる」という事実のことではない。私たちが互いに等しくありながらも異なる存在として、語り、行為し、現れ合うこと。アーレントにとって、人間は他者の前で行為し語ることによってはじめて「自分が何者であるか」を示すことができる。複数性は、人間が人間たりうるための条件そのものだ。

この条件が丸ごと消えたとき、失われるのは能力でも知識でもない。「自分が何者であるか」を示す場が消える。存在の条件そのものが崩壊する。

あなたが何かを好きでいる姿を、誰も見ていない。誰も知らない。誰にも記憶されない。それでもあなたは、それを「好きなこと」と呼べるだろうか。

誰にも届かない言葉

もう少し不気味な話をしよう。言葉の問題だ。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは『哲学探究』(1953年)の§243以降で、いわゆる「私的言語」の不可能性を論じた。ここでいう「私的言語」とは、他人に伝わらない暗号やメモのことではない。原理的にその話者にしか理解できない言語のことだ。自分だけがアクセスできる内的な感覚に基づく言語。ウィトゲンシュタインの結論は明快で、そのような言語は「正しい使用」と「誤った使用」を区別するための基準を確立できず、したがって意味ある言語としては成立しない、というものだった。

言語の意味は、共同体の中での使用を通じて成り立っている。言葉が意味を持つためには、少なくとも原理上、他者がその使用を確認できる可能性が必要だ。

世界に一人きりになったとき、あなたの言葉はまだ「言葉」だろうか。独り言を呟く。でもそれは意味を持っているのか。それとも、かつて意味を持っていたものの残響にすぎないのか。

面白いのは、おそらく多くの人が、一人になっても話し続けるだろうということだ。壁に向かって、ペットに向かって、あるいは想像の中の誰かに向かって。聞き手がいなくても語ることをやめられない。だとすれば、一人きりで語り続ける人間は、もう存在しない共同体の幻影を相手に、言葉の意味をかろうじて延命させていることになる。

言葉が朽ちるのと、あなたが朽ちるのと、どちらが先だろう。(もっとも、誰も聞いていないのだとすれば、朽ちたかどうかを確かめる方法すらない。)

道徳が腐る速度

他者がいなくなったとき、道徳はどうなるか。

直感的に言えば、不要になる。嘘をつく相手がいない。盗む対象がいない。約束を破る相手がいない。道徳のほとんどは、他者との関係の中でのみ意味を持つ。ギュゲスの指輪を持ち出すまでもなく、ここでは全員が透明人間だ。

ジャン=ポール・サルトルは戯曲『出口なし』(Huis clos, 1944年)の中で、登場人物にこう言わせた。「地獄とは他人のことだ(L'enfer, c'est les autres)」。あまりに有名な一節だが、この言葉はしばしば「他者との関係は常に有害だ」という意味に誤解される。サルトル自身が1964年の録音版序文で釈明しているように、彼の意図はそうではない。他者との関係がゆがめられているとき、そのとき他者は地獄になりうる、ということだ。他者のまなざしは、私たちを「見られる対象」として固定する。その視線から逃れられないことが苦しみを生む。

では、そのまなざしが完全に消えた世界は天国か。

おそらく、そうではない。まなざしの重さから解放されると同時に、「見られている」ことで辛うじて保たれていた自己の輪郭もまた溶けていく。誰にも見られない存在は、自由というより、不定形だ。

一方で、イマヌエル・カントなら別の角度から語るだろう。カントにとって道徳の根拠は他者の存在ではなく、理性的存在者としての自律にある。道徳法則に従うのは誰かのためではなく、理性的であること自体がそれを要請するからだ。この立場に立てば、世界に一人きりでも、自分自身に対する義務は消えない。

でも現実はどうだろう。

一人きりの世界で、あなたは毎朝歯を磨くだろうか。部屋を片づけるだろうか。服を着るだろうか。身だしなみを整えるだろうか。

正直に答えてみてほしい。その答えの中に、あなたの道徳がどこまで「自分のもの」で、どこからが他者のまなざしへの応答だったかが透けて見える。

誰も読まない日記

それでも、おそらく人は書く。

誰も読まないとわかっていても、記録する衝動は消えないのではないか。数万年前、洞窟の壁に手形を押した人類の祖先たちと同じように、私たちは痕跡を残さずにはいられない。

問題は、それが誰に向けられているかだ。

未来の読者に? でも人類はもういない。自分自身への備忘として? でもそれなら覚えていれば済む話だ。それとも、「書く」という行為それ自体が目的なのか。

もしそうなら、書くことは情報の伝達ではなく、存在の刻印だということになる。「私はここにいた」。それは誰にも読まれなくても成立しうるのだろうか。

あるいは、しない。誰の目にも触れない文字は、壁のシミと何が違うだろう。

書くことが他者を前提としないなら、洞窟に手形を残した祖先は、誰に向けて押していたのか。自分に? 神に? それとも、まだ見ぬ「誰か」がいつかそれを見るという、根拠のない希望に?

もし最後の一つだとしたら、人間は孤独の中でさえ、他者を発明してしまう生き物だということになる。

約束のない時間

私たちの時間は、ほとんどが他者によって構造化されている。始業時刻、待ち合わせ、締切、終電。他者がいなくなった瞬間、これらはすべて蒸発する。残るのは太陽の動きと、空腹のリズムだけだ。

社会的な時間が消えたとき、あなたに残る「時間」はどんな形をしているだろう。

朝と夜を区別する必要はあるか。曜日は? 月は? 年は? 「今日は何曜日だったか」と考えること自体が、もう存在しない社会の残骸にしがみつく行為だとしたら。

約束がない時間は、おそらくゆっくりと形を失っていく。最初のうちは時計を見る。でもいつか、それも無意味になる。時間は構造を失い、ただ「今」だけが無限に引き伸ばされていく。何も起きなかった日が永遠に連なっていく。

それは究極の自由だろうか。それとも、最も精巧に設計された鎖のない牢獄だろうか。

区別がつかないとしたら、自由と刑罰のあいだに、本質的な違いなどあるのだろうか。

あなたは誰の前で生きていたのか

この思考実験が最後に突きつけるのは、おそろしく単純な問いだ。

私たちは、自分が思っているよりもずっと多くのことを、他者のために、他者の目を通して、他者の存在を前提として、行っている。好きなこと。正しいと思うこと。美しいと感じること。そのどこまでが「自分のもの」で、どこからが他者の反射なのか。境界線は、たぶん引けない。(孤独が治らないのは、この境界線がもともと存在しないからかもしれない。)

他者がすべて消えた後に残るもの。それがあなた自身だ。

もし何も残らないとしたら。それは悲劇だろうか。それとも、最初から「自分自身」などというものは幻想だったという、ただの確認にすぎないのか。

誰にも見られず、誰にも語れず、誰にも記憶されない世界で、あなたはそれでも明日の朝、目を覚ますだろうか。

覚ますとしたら、なぜ?


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