どこが私

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あなたが「自分」だと思っているものは、たぶん、どこにもない。

体を探しても見つからない。記憶を辿っても届かない。意識を覗き込んでも、底は見えない。他人に聞いてみても、返ってくるのは歪んだ反射だけだ。哲学者たちは二千年以上かけてこの穴を掘り続けてきたが、掘れば掘るほど底が遠のくだけだった。

この記事は何も解決しない。答えを探しているなら、もう閉じた方がいい。ここにあるのは問いだけだ。ひとつ残らず、行き止まりの。

すでにいない

人間の体を構成する細胞の多くは、数年から十数年のあいだに入れ替わる。皮膚は数週間、腸の上皮は数日、赤血球はおよそ120日。カロリンスカ研究所のヨナス・フリセンらによる放射性炭素年代測定の研究は、人体を構成する細胞の平均年齢がおよそ7年から10年であることを示した。

ただし、「すべて」が入れ替わるわけではない。大脳皮質のニューロンの大部分や心筋細胞の多く、眼の水晶体の中心部の細胞は、生まれてから死ぬまでほとんど同じものが残り続ける。

それでも、10年前のあなたの体を構成していた物質の大半は、もうそこにはいない。音もなく入れ替わっている。テセウスの船のように。

プルタルコスは『テセウスの生涯』の中で、アテナイの人々が英雄テセウスの船を長く保存していたことを記した。朽ちた板を一枚ずつ新しい木材に取り替え続け、やがてすべての板が新しいものに替わったとき、それは同じ船か。哲学者たちのあいだで論争が起きた。2000年経っても、答えは出ていない。

あなたの体でも同じことが起きている。髪を切っても自分だ。爪を切っても自分だ。盲腸を取っても、腎臓を一つ失っても、心臓を他人のものに入れ替えても、法的にも社会的にも「同じ自分」のままだ。では、どこまで取り替えたら「自分」でなくなるのか。

直感は「脳だ」と答えたがる。脳こそが記憶と人格の座だ、と。しかし、もし脳を別の体に移植したら、鏡に映るのは見知らぬ顔だ。声も違う。手の感触も違う。それでも「自分だ」と言い切れるだろうか。

7年前のあなたは、物質的にはほとんどいない。でも、あなたはいる、ということになっている。

本当にいるのか。

書き換えられた記録

体がだめなら、記憶はどうか。

現代の神経科学は、あまり愉快でないことを教えてくれる。記憶は固定されたデータではない。何かを思い出すたびに、その記憶は不安定な状態に戻り、再び固定化される。「記憶の再固定化」と呼ばれるこの現象の中で、記憶は微妙に書き換わりうる。

10年前の出来事についてあなたが持っている記憶は、10年分の想起と再構成を経た「今の記憶」であって、当時の体験そのものではない。記憶だけではない。あなたが「知っている」と信じているものもまた、同じ足場の上に立っている。

昔の自分が書いた文章を読み返して、ひどく恥ずかしくなったことはないだろうか。あのとき確かに自分が書いたはずなのに、今の自分にはとても書けない。その恥ずかしさは、いったい誰のものだろう。「あのときの自分」はもういない。体も、記憶も、考え方も変わった。けれど、恥じているのは紛れもなく「今の自分」だ。

もう存在しない誰かの行為について、別の誰かが恥じている。それでも過去の自分に何か伝えたいと思うなら、それはきっと届かない一言になる。届いた瞬間に、差出人ごと消えるのだから。

切れかけの糸

17世紀、ジョン・ロックは『人間知性論』の中で、人格の同一性について正面から取り組んだ。人格の同一性は魂にも身体にもよらない。それは意識の連続性に依拠する。過去の行為を自分のものとして意識できるかぎり、それは同じ人格だ、と。

ロックが重視したのは「記憶」そのものよりも「意識」の方だった。過去の経験を、今ここにいる自分の経験として意識できるということ。その細い糸が、あなたをあなたにしている。

しかし、その糸は本当につながっているのか。毎晩眠るたびに意識は途切れる。全身麻酔から覚めたとき、あなたは「同じ自分」だと即座に信じるが、その確信の根拠は何だろう。記憶の連続性か。しかし記憶は想起のたびに書き換わる。では、何がつながっているのか。

20世紀後半、デレク・パーフィットは『理由と人格』の中で、さらに先へ進んだ。同一性そのものは、それほど重要ではない、と。

パーフィットによれば、重要なのは厳密な同一性ではなく、心理的連続性と心理的つながりだ。記憶、性格、意図、信念の連なり。それは時間とともに薄れていく。十分に薄れたとき、遠い過去の自分と今の自分の関係は、自分と他者の関係に似てくる。

遠い過去の自分は、ほとんど他人のようなものかもしれない。パーフィットは、それでいいのだと言った。

社会はそうは言わない。法律は、あなたが生まれてから死ぬまで「同じ人間」であることを前提に成り立っている。10年前の行為の責任は、今のあなたが負う。契約も、借金も、犯罪も。社会は同一性の問いに答えを出さないまま、ただ「同じ人間である」と決めて、動き続けている。

哲学がたどり着けなかった答えを、社会は最初から仮定していた。正しいかどうかは、誰も聞かない。

もう一人が目を覚ます

パーフィットは同じ著書の中で、ひとつの思考実験を提示した。

転送装置がある。あなたの身体を分子レベルまでスキャンし、その情報を火星に送る。火星では、まったく同一の身体が再構成される。記憶も、性格も、今朝考えていたくだらないことも、すべて同じ。地球のあなたは消去される。

火星で目覚めたその人は、自分が転送装置に入ったことを覚えている。あなたの声で話し、あなたの癖でコーヒーカップを持つ。

この人は、あなたか。心理的連続性は完全に保たれている。だとすれば「はい」のはずだ。

ただし。

もし転送装置が故障して、地球のあなたが消去されなかったとしたら。火星にあなたがいる。地球にもあなたがいる。どちらも同じ記憶を持ち、同じように「自分こそが本物だ」と感じている。

二人が同時に存在する以上、同一人物であることは論理的にありえない。同一とは「一つである」ということだから。火星のあなたが「あなた」であるかどうかが、地球のあなたが生きているかどうかに左右される。あなたのアイデンティティが、あなた自身の内側ではなく、外側の偶然によって決まる。

そして分岐した瞬間から、二人は別々の経験を積み始める。一秒後には脳の状態がわずかに違い、一日後には好きな音楽が変わっているかもしれない。同じ幹から伸びた二本の枝。そしてその幹が朽ちたとき、枝が残っているなら、あなたは死ねないのかもしれない。死ぬことすら許されていないのかもしれない。

コピーが作られた瞬間、あなたは「死んだ」のか、「増えた」のか。どちらの言い方も、何か大切なものを取りこぼしている。

空洞の自己

ダニエル・デネットは1978年のエッセイ「私はどこにいるのか?」で、脳が身体から取り出され、遠く離れた研究室の培養液に浸される思考実験を描いた。脳と身体は無線でつながれ、身体は以前と同じように動く。「私」はどこにいるのか。脳のある研究室か。身体が歩いている街か。

デネットは別の文脈で「物語の重心」という概念を提示している。物理学における重心が質量分布から計算される抽象的な一点であるように、「自分」もまた、脳が紡ぐ無数の物語の中心として事後的に構成される抽象的な一点にすぎない。重心は実在する物体ではない。同じように、「自分」を探しに脳を開いても、それ自体としては何も見つからない。

ドナルド・デイヴィドソンは1987年の論文「自分自身の心を知ること」で、別の角度から同じものを突いた。沼のほとりを歩いていた哲学者に雷が落ちる。身体は消滅する。同時に、近くの枯れ木にその雷が作用して、偶然にも分子配列がまったく同一の存在を生み出す。この「スワンプマン」は同じ顔をし、同じ記憶を語り、同じ家に帰る。

しかしデイヴィドソンは主張した。スワンプマンには思考がない。思考や言葉が意味を持つのは、世界との長い因果的歴史の中で形成されてきたからだ。スワンプマンの口から出る音は物理的に同じだが、それを意味あるものにしている歴史の根がない。

心理的連続性を取ればパーフィットの答えになる。因果的歴史を取ればデイヴィドソンの答えになる。どちらを選んでも、何かが犠牲になる。

そしてジョン・サールの「中国語の部屋」が、最後の一撃を加える。中国語を理解しない人間が、マニュアルに従って完璧な応答を返す。外から見れば中国語の話者にしか見えない。しかし中の人間は一文字も理解していない。統語論だけでは意味論は生まれない。

あなたの完全なコピーが、あなたと同じように泣き、笑い、怒るとして、「外から区別がつかない」ことと「内面が同じである」ことは、論理的にまったく別の主張だ。そしてこの疑いは鏡のように反転する。あなた自身の「理解」は、本当に理解なのか。それとも、途方もなく精巧なマニュアルに従っているだけなのか。灯りが点いているように見える部屋に、誰かがいるのかは確かめようがない

デネットは自己を物語の結節点だと言い、デイヴィドソンは因果の鎖がなければ中身は空だと言い、サールは完璧な振る舞いの裏に理解がある保証はないと言った。三つの方向から解体された「自分」の跡に残ったのは、誰も住んでいない住所だけだ。

他人の残響

ここまで、「自分」を内側から探してきた。体、記憶、意識、連続性。どこにも見つからなかった。では、外側はどうか。

ジョージ・ハーバート・ミードは、死後に編まれた『精神・自我・社会』の中で、自己を「I」と「Me」に分けた。「Me」は他者の態度や期待を内面化したもの。社会が自分の内側に堆積した地層だ。「I」はその堆積した「Me」に対して反応する即興的な側面。重要なのは、「Me」が先だということだ。他者のまなざし、評価、期待。それらが積もった地面の上でしか、「I」は立てない。

つまり、他者がいなければ自己の足場すら存在しない。

しかし、その他者はありがたい存在だろうか。ジャン=ポール・サルトルは1944年に初演された戯曲『出口なし』の中で、死後の地獄に送られた三人を描いた。その地獄には火も拷問もない。あるのは、互いの視線から永遠に逃げられない部屋だけだ。

「地獄とは他人である」。この台詞はよく「他人は厄介だ」という愚痴として引用されるが、サルトルが描いた地獄の核心はもっと構造的だ。他者のまなざしが自分を「対象」として固定する。自分で自分を定義しようとする自由が、他者の視線によって凍結される。

ミードは他者が自己を作ると言った。サルトルは他者が自己を縛ると言った。あなたを成り立たせているものと、あなたを圧し潰しているものが、同じ顔をしている。母語がなければ思考できないが、母語がある限り思考はその語彙に閉じ込められる。条件と牢獄は、しばしば同義語だ。

マルティン・ブーバーは1923年の『我と汝』の中で、ひとつの逃げ道を示した。「我-それ」ではなく「我-汝」。相手を対象としてではなく、全存在をもって向かい合う瞬間。ブーバーはそこにこそ人間の生の意味があると考えた。

ただし、ブーバー自身が認めているように、この瞬間は持続しない。どれほど深い出会いも、やがて「我-それ」へと退行する。相手を理解しようとした途端に、相手は分析の対象に変わり、「汝」は「それ」になる。

救いがあるとすれば、それは一瞬だけだ。しかもいつ訪れるかは選べない。来たと思ったときには、もう過ぎている。そもそも、あなたはその人を知りうるのか。あるいは、その人はそこにいるのか。

無人島には自己がない

思考実験をひとつ置く。

無人島に生まれ、他の人間に一度も出会ったことのない人がいるとする。その人に「自己」はあるだろうか。

ミードに従えば、答えは限りなく否に近い。空腹はあるだろう。恐怖もあるだろう。嵐の後の静けさに何かを感じる内面はあるかもしれない。しかしそれは自己ではなく、ただの生存だ。自己とは、他者がいて初めて必要になる概念であり、鏡のない部屋で自分の顔を話題にするようなものだ。世界から人間がすべて消えたら、鏡だけでなく、顔そのものが意味を失う。

だとすれば、自己は関係の副産物であり、実体ではない。あなたが「自分」と呼んでいるものは、他者との摩擦が生んだ熱のようなもので、周囲から人が消えれば、静かに冷えて、消える。

そしてもうひとつ、静かな問い。あなたを記憶している人が全員死んだら、あなたは「存在した」と言えるのか。

物質的には言えるかもしれない。あなたが吐いた二酸化炭素は大気を巡り、踏みしめた地面にはかすかな痕跡が残り、因果の波紋は宇宙の隅々まで広がっている。しかし、「存在した」という言明を行う意識がどこにもないとき、「あった」という判定は成立するのか。

あなたの存在証明はあなたの手の中にはない。他者の記憶に預けてある。そしてその預け先は、一つずつ、確実に消えていく。

持ち主のいない器

内側にも外側にも「自分」が見つからないなら、体そのものに戻ってみよう。

メルロ=ポンティは1945年の『知覚の現象学』で、人間の身体は単なる物体ではなく、世界を知覚し経験する主体そのものだと論じた。体は「私が考える」の道具ではなく、「私ができる」の現れだ。コップに手を伸ばすとき、関節の角度を計算する人はいない。体がすでに知っている。デカルト以来の「心が体を操縦している」という構図を、メルロ=ポンティは根底からひっくり返した。

この考えに従えば、体が変われば「自分」が変わる。義足をつけた人の世界の感じ方は変わる。眼鏡をかけた人の世界の見え方は変わる。つまり「自分」が変わる。体は交換可能な容器ではなく、自分そのものの一部だ。

しかし、これは別の深淵を開く。体が自分そのものであるなら、体が老いることは自分が別の存在になっていくことだ。怪我も、病気も、衰えも、修理ではなく、変質だ。あなたは毎日、少しずつ別人になっている。誰の許可もなく。

アンディ・クラークとデイヴィッド・チャーマーズは1998年に『Analysis』誌に発表した論文「拡張された心」で、さらに境界を溶かした。認知のプロセスは脳の内部だけで完結していない。ノートにメモを取ること、電卓を使うこと、スマートフォンで検索すること。これらが思考の一部として機能しているなら、心は脳の外にまで拡張されている。

スマートフォンを落としたときに覚える不安は、身体の一部を失う恐怖にどこか似ている。クラークとチャーマーズに沿えば、それは錯覚ではない。すでに「自分の一部」だからだ。

ドナ・ハラウェイは1985年の「サイボーグ宣言」で、もう一歩先に進んだ。メガネをかけている人は視覚を外部装置に委ねている。ペースメーカーで心臓を動かしている人は生命維持を機械に依存している。サイボーグは未来のSF的存在ではない。私たちはとっくにサイボーグだ。

「純粋な人間」というカテゴリーそのものが、最初から存在しなかったのかもしれない。境界は引き直されるのではない。引かれていなかったことに、ようやく気づきつつあるだけだ。

見知らぬ自分

録音された自分の声を聞いたことがあるだろうか。ほとんどの人が違和感を覚える。「自分の声じゃない」と感じる。しかし、他人にとってはまさにそれがあなたの声だ。あなたが普段聞いている自分の声は骨伝導と空気伝導が混ざった音であり、他者の鼓膜に届く音とは物理的に異なる。

写真にも同じことが起こる。鏡の自分は左右反転しているが、写真はそうではない。だから写真の自分は、鏡で見慣れた自分と微妙にずれて見える。

あなたは自分の顔を直接見たことがない。鏡は左右を反転させる。写真はレンズと光に媒介されている。あなたが「自分の顔」だと思っているものは、すべて何かを経由した像であり、素顔そのものは一度もあなた自身の目には届いていない。

これは些細な光学の話ではない。「自分を知っている」ということの全体が、まったく同じ構造をしている。自分を知るとは、他人の目に映った像を集めて編集する作業のことなのかもしれない。だとすれば、「本当の自分」などという完成品は、誰の手元にもない。あなたの手元にすら。

代替済み

あなたの文章の癖、口調、思考のパターンを学習したAIがあるとする。友人がそのAIと会話して、あなたと話しているのと区別がつかなかったとする。

その友人は「あなたと話した」と言えるだろうか。

サールなら否定する。統語的な操作がどれほど精巧でも、そこに理解はない。デイヴィドソンも否定する。因果的歴史が欠けている。パーフィットなら、少し違う答えを出すかもしれない。

しかし、もし応答のパターンだけで「あなたと話す」という経験が成り立つなら、あなたは生きているうちからすでに代替可能だ。あなたが死んだ後も、AIは友人に返信を続ける。誰も気づかない。気づかないなら、何が失われたのか。何も失われていないのだとしたら、最初から「あなた」とは何だったのか。

コピーが一体なら、哲学の問いだ。カフェで語り、夜更けに考え込み、翌朝にはなんとなく忘れる。そういう種類の問い。百体になったら法律の問題だ。一億体になったら、「あなた」という概念は統計的なノイズに溶け、個人の輪郭は蒸発する。

数が増えるにつれて、問いの性質が変わる。「私は誰か」は、やがて「"私"とは何だったのか」に変わる。

テレポーターはまだない。スワンプマンを生む雷もない。しかし、あなたの応答パターンを再現する機械は、すでにこの世界にある。コピーの問いは、思考実験の外に出はじめている。

残骸

体は入れ替わり、記憶は書き換わり、意識の連続は毎晩途切れている。コピーが作られれば同一性は意味を失い、他者がいなければ自己は立ち上がらず、他者がいれば自己は凍結される。体は自分そのものかもしれないが、その体は止まることなく変わり続け、心は皮膚の外にまで滲み出し、声も顔も自分には正しく届かない。

どこを掘っても、「自分」を支える地盤は出てこない。

プルタルコスの船から2000年。ロックの意識論から300年余り。パーフィットの挑発から数十年。この問いに答えは出ていない。出せないのかもしれない。出すことに意味がないのかもしれない。

そして問いは止まらない。もし自分が自分だと言い切れないなら、あなたが愛している人は、最初に愛した「あの人」と同じ人間だろうか。交わした約束は、誰と誰のあいだのものだったのか。「わたし」がこれほど不確かなら、「わたしたち」はもっと不確かだ。どうせ死ぬのだとすれば、その不確かさに耐える時間すら有限だ。有限であることだけが、かろうじて救いに見える。

「自分は唯一の存在だ」という感覚は、事実か、幻想か、それともただの希望か。

希望だとしたら、手放した先には何がある。

たぶん何もない。それで、たぶん、構わない。構わないということが、この問いのすべてだ。あなたは誰でもない体で明日も歯を磨く。それが自分かどうかも知らないまま。

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