何も確かではない

あなたは今、何かを「知っている」と思っている。そして昨日のことを「覚えている」と思っている。

残念だが、どちらもおそらく嘘だ。

知識と呼んでいるものの定義は、六十年以上前に壊れたまま誰にも修復されていない。記憶と呼んでいるものは、脳が毎回つくり直す即興のフィクションだ。あなたが「自分」だと思っているものは、その壊れた知識と捏造された記憶の上に建てられた、土台のない建物だ。

この先に救いはない。安心できる結論もない。あるのは、あなたがすでに薄々気づいていたかもしれない、いくつかの不愉快な事実だけだ。

再生という幻想

記憶は録画ではない。

1932年、イギリスの心理学者フレデリック・バートレットは著書 Remembering: A Study in Experimental and Social Psychology のなかで、記憶が過去の忠実な「再生(reproduction)」ではなく「再構成(reconstruction)」であることを実験的に示した。北米先住民の民話を被験者に読ませ、時間を置いてから語り直させたところ、被験者たちは物語を自分の文化的枠組みに合わせて変形させた。馴染みのない要素は消え、筋が通るように改変された。

人は思い出すとき、過去を取り出しているのではない。今この瞬間の知識と感情を材料にして、「過去らしきもの」をその場で組み立てている。バートレットはこの認知的枠組みを「スキーマ(schema)」と呼んだ。スキーマに合わないものは切り捨てられ、合うように歪められ、足りない部分は想像で補われる。

「昔はよかった」という感覚は、記憶が現実を美化する構造的傾向の産物かもしれない。そして、美化される前の「本当の過去」がどんなものだったかを確かめる手段は、永遠に失われている。

思い出すたびに壊れていく

記憶が不正確なだけならまだいい。思い出すという行為そのものが、記憶を壊す。

2000年、マギル大学のカリム・ネイダーらは Nature 誌上の研究で、一度定着した記憶が想起される際にタンパク質合成を必要とする不安定な状態に戻ることを示した。「再固定化(reconsolidation)」と呼ばれるこのプロセスは、「記憶は一度固定されれば安定する」という従来の前提を覆すものだった。

想起のたびに、現在の感情と文脈と解釈が記憶に混入する。思い出すことは過去を保存する行為ではない。過去を現在で上書きする行為だ。

ここに小さな、しかし救いのない皮肉がある。最も大切にしている思い出は、最も頻繁に想起される。最も頻繁に想起される記憶は、最も多く再構成を経ている。あなたが一番鮮明に覚えていると信じている記憶こそ、原形を最もとどめていない。だから過去の自分に何かを伝えたいと思っても、その言葉を受け取るべき相手は、もうどこにもいない。

知識という幻覚

記憶が頼りにならないとして、では「知っている」とはどういうことなのか。

二千年以上前、プラトンは対話篇『テアイテトス』のなかで知識とは何かを問うた。そこから西洋哲学は長い時間をかけて、ひとつの古典的定義にたどり着いた。

知識とは、正当化された真なる信念(justified true belief)である。

あなたが何かを「知っている」と言えるためには、三つの条件が必要になる。あなたがそれを信じていること。それが実際に真であること。その信念に正当な根拠があること。

一見すると完璧だ。「太陽は東から昇る」と信じていて、実際にそうなり、天文学的根拠がある。これは知識だ。直感にも合う。二千年の歳月に耐えた定義は、もう十分に堅固に見える。

そう見えていた。

三ページで二千年が崩れた

1963年、エドマンド・ゲティアは「正当化された真なる信念は知識か(Is Justified True Belief Knowledge?)」という論文を発表した。わずか三ページ。しかしその衝撃は、二千年分の哲学的蓄積を揺るがすのに十分だった。

ゲティアが示したのは単純だが致命的な反例だ。正当化された根拠があり、信じている内容がたまたま真であったとしても、それを「知識」と呼べないケースが存在する。間違った理由で、たまたま正しいことを信じている。それでも三条件はすべて満たされてしまう。

これは知識だろうか。ゲティアの答えは明快だった。いいえ。

あれから六十年以上。「知識とは何か」に対する合意された新たな定義は、いまだに存在しない。哲学は知識の定義を失ったまま、二十一世紀を迎えた。

あなたが「知っている」と思っているすべてのことに、ゲティア的な偶然が紛れ込んでいないと、誰が保証できるだろうか。そもそも定義の問題が片づいたところで、言葉では決して届かない種類の知が、その外側に静かに広がっている。

確信の無価値

「はっきり覚えている」。「絶対に間違いない」。その確信に、どれほどの値打ちがあるだろう。

1974年、認知心理学者エリザベス・ロフタスとジョン・パーマーは、事後情報が記憶を歪めるかを調べる実験を行った。被験者に交通事故の映像を見せた後、ある群には「車同士が*ぶつかった(hit)*とき、どのくらいの速度でしたか?」と尋ね、別の群には「*激突した(smashed)*とき」と尋ねた。結果、「激突した」と聞かされた群のほうが速度を高く見積もった。さらに一週間後には、映像に存在しなかった割れたガラスを「見た」と回答する割合が、この群で有意に高くなった。

質問のなかの動詞がひとつ変わるだけで、記憶は書き換わる。

ロフタスはさらに1995年の研究で、家族の協力のもと「子どものころショッピングモールで迷子になった」という架空の幼少期体験を被験者に提示した。結果、約四分の一の被験者がその偽の記憶を自分の体験として受け入れた。受け入れた者のなかには、存在しなかった出来事の細部を具体的に「思い出し」、感情を伴って語る者すらいた。

この「誤情報効果(misinformation effect)」の含意は、きわめて現実的な場所に届く。法廷だ。目撃証言は有罪判決を左右することがある。しかし記憶研究が繰り返し示してきたのは、目撃者の主観的な確信の強さと記憶の客観的な正確さが、必ずしも対応しないという事実だ。

あなたが「絶対に間違いない」と感じている記憶。それは、脳が事後的に編集したフィクションかもしれない。そして本当に厄介なのは、フィクションであっても、あなたにはまったく本物に感じられるということだ。もっとも、「本物に感じる」ことが何かの証拠になると思っているなら、あなたの現実そのものに根拠がないという話を先に聞いたほうがいいかもしれない。

科学は味方ではない

記憶も知識の定義も頼りにならないなら、せめて科学は確かなものを教えてくれるだろうか。

トマス・クーンは1962年の著作『科学革命の構造(The Structure of Scientific Revolutions)』で、科学の進歩が真理への直線的な前進などではないことを描いた。

科学は「パラダイム」と呼ばれる枠組みのなかで営まれる。共有された前提と方法論のもとで「通常科学」が行われ、その枠組みでは説明できない異常が蓄積すると、やがてパラダイムそのものが崩壊し、新たな枠組みに置き換わる。天動説から地動説へ。ニュートン力学から相対性理論へ。それらは「より正確な理論への進歩」であると同時に、かつて「真実」とされていたものの全面的な書き換えでもあった。

今あなたが信じている科学的事実のうち、百年後にも「真実」であり続けるものはどれだけあるだろう。科学は覆る。根底から。それは科学の欠陥ではなく、科学という営みの本質だとクーンは言う。だが、その「本質」は、私たちが科学に求めている安心感とはまるで相容れない。

科学は真実を教えてくれるのではない。今のところ最も反証されていない仮説を提供しているにすぎない。

全員が同じ嘘のなかにいる

個人の記憶が頼りなく、知識の定義が壊れ、科学すら暫定的だとして、せめて「みんなが同意していること」は信じられるだろうか。

歴史はこの問いに残酷なほど明確に答えている。かつて、太陽が地球のまわりを回っていると「全員が知っていた」。瀉血が病気を治すと「全員が知っていた」。全員が間違えていた。

記憶の領域でも同じことが起きる。ネルソン・マンデラが1980年代に獄中で亡くなったという明瞭な記憶を、驚くほど多くの人が共有している。実際にはマンデラは1990年に釈放され、南アフリカ共和国大統領を務め、2013年に95歳で亡くなった。この集団的偽記憶の現象は「マンデラ効果」と呼ばれている。

英語圏では、人気絵本シリーズ The Berenstain Bears の綴りを Berenstein と記憶している人が非常に多い。映画『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』でダース・ベイダーが "Luke, I am your father" と言ったと覚えている人は多いが、実際の台詞は "No, I am your father" だ。

バートレットのスキーマ理論が示唆するように、文化的枠組みを共有する人々は情報を同じ方向に再構成しやすい。Berenstain より Berenstein のほうが馴染みのある綴りに見え、"No, I am your father" より "Luke, I am your father" のほうが台詞としておさまりがいい。インターネットはこの傾向を加速させた。誰かの不正確な記憶が共有され、別の誰かの不正確な記憶を補強する。集団で覚えているのだから正しいはずだという素朴な確信が、偽りの記憶にさらなる重みを与える。

多数決で事実は決まらない。しかし多数決で記憶は形成される。そして合意は、真理の保証にはならない。

あなたが今信じていることのなかに、五十年後の人々から「全員が間違えていた時代」の遺物として振り返られるものが、いくつ含まれているだろう。あなたにはそれを識別する手段がない。

シャッターを切った瞬間に死ぬもの

記憶が頼りにならないなら、記録すればいい。そう考えるのは自然な帰結だ。

だから私たちは写真を撮る。旅先で、食卓の前で、友人の隣で。撮らなければ忘れてしまうから。撮っておかなければ、それが「あった」ことすら証明できなくなるから。

でも、レンズ越しに世界を覗いているとき、あなたはその場にいるだろうか。構図を探し、露出を気にし、シャッターを切るタイミングを計っているとき、あなたは目の前の景色を体験しているのか、それとも体験を記録する作業をしているのか。後日その写真を見返して「いい旅だった」と思う。けれどあの瞬間にあなたが本当に感じていたのは、うまく撮れるかどうかの焦りだったかもしれない。

SNSはこの傾向をさらに先へ押しやった。「撮らなければ存在しない」という暗黙の圧力。共有しなかった体験は、体験としての強度を失っていく。誰にも見せなかった夕焼けは、見なかったのと同じなのか。投稿しなかった旅行は、行かなかったことになるのか。誰にも覚えられていないとしても、そこに意味はあったのだろうか。

一方で、写真に撮らなかった記憶は脳のなかで思い出すたびに少しずつ姿を変えていく。数年後には原型を留めていないかもしれない。しかし、その不正確な記憶のなかに、写真には写らなかった空気の温度や感情の揺れが、歪んだかたちであれ残っていることもある。

写真は一つの角度から切り取られた光の記録にすぎず、体験そのものではない。写真のない記憶は、脳が何度も編集し直した再構成物にすぎず、事実そのものではない。

私たちはどちらにしても、過去そのものには二度と手が届かない。

心地よい嘘

ウィリアム・ジェイムズは真理についてまったく別の角度から考えた。プラグマティズムと呼ばれるその立場において、ジェイムズは真理を「役に立つもの」として捉えた。ある信念が経験のなかでうまく機能し、他の信念と整合し、行動の指針として有効であれば、それは「真」である。真理とは現実との静的な対応ではなく、経験のなかで検証されていく動的なプロセスだと、ジェイムズは考えた。

ある意味で解放的な考え方だ。真理を形而上学的な高みから引きずり下ろし、生活のなかに根づかせる。

だが、その帰結を少しだけ先まで追うと、不穏な風景が見えてくる。もし真理が「役に立つかどうか」で決まるのだとしたら、不快な真実よりも心地よい嘘のほうが「真」になりうる場面が存在しないだろうか。完璧な幸福だけを注ぎ込んでくれる装置が目の前にあったら、あなたはプラグを差すだろうか。実際に、私たちは日々それに近い選択を行っている。都合の悪い事実から目を逸らし、心地よい物語を選び取る。SNSのフィードは、あなたが聞きたいことだけを聞かせてくれる。

2016年、オックスフォード英語辞典は「ポスト・トゥルース(post-truth)」を「今年の言葉」に選んだ。客観的な事実よりも感情や個人的信条が世論の形成に影響を与える状況を指す言葉だ。

だが「ポスト」という接頭辞は楽観的すぎる。まるで、かつて真実が支配していた黄金時代があったかのような響きがある。そんな時代は、おそらく一度も存在しなかった。

糸は最初から切れていた

記憶が捏造で、知識の定義が壊れていて、科学は暫定的で、合意は無意味で、記録も保存も不可能だとして。

では、「自分が自分であること」は、いったい何によって支えられているのか。

ジョン・ロックは1690年の『人間知性論(An Essay Concerning Human Understanding)』で、人格の同一性の基準を「意識の連続性」に置いた。過去のある行為を自分の行為として意識できるかぎり、その行為の主体と現在の自分は同一人物である、と。

だが、この枠組みには穴がある。泥酔して記憶のない夜の自分は「自分」なのか。全身麻酔で意識が途絶えた数時間は、自分の人生に含まれるのか。乳児期の記憶を持たない以上、その時期の自分は今の自分と「同一人物」なのか。

デレク・パーフィットは1984年の『理由と人格(Reasons and Persons)』で、さらに踏み込んだ。パーフィットは人格の同一性の基準として「心理的連続性と結合性」を提案した。記憶だけではなく、性格、信念、欲求、意図。これらの心理的要素が連鎖的につながっているかぎり、そこに同一性の根拠がある。

しかしパーフィットの本当の主張はもっと不穏だ。同一性そのものが重要ではない、と彼は言った。重要なのは心理的連続性が保たれているかどうかであって、それが「同一人物であること」と呼ばれるかどうかは本質的な問題ではない。そしてその連続性は程度問題でしかなく、薄まっていけば、「過去の自分」との関係は「他者」との関係に限りなく近づいていく。その先を覗き込めば、「自分」がそもそも最初からいなかったかもしれないという空洞が口を開けている。

完璧な記憶という地獄

忘れてしまうことが問題なら、すべてを覚えていればいいのだろうか。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは短編「記憶の人、フネス(Funes el memorioso)」で、知覚したすべてを完璧に記憶する男を描いた。のちに短編集『伝奇集(Ficciones)』(1944年)に収められるこの作品の主人公イレネオ・フネスは、落馬事故のあと、ブドウの棚のすべての葉、すべての房、すべての実を一目で認識し、記憶する能力を得る。ある日の雲の輪郭を。水面に映った夜明けの移り変わりを。すべてを、細部の細部まで。

しかしボルヘスが描いたのは祝福ではない。呪いだ。

フネスは抽象的に思考することができない。「犬」という概念を持てない。三時十四分に横から見た犬と、三時十五分に正面から見た同じ犬は、彼にとってまったく別のものだからだ。ボルヘスは語り手にこう言わせる。

考えるとは、差異を忘れること、一般化すること、抽象化することだ。

忘却は欠陥ではなく、機能なのかもしれない。私たちが昨日の小さな屈辱を忘れ、去年の悲しみを薄め、「まあ、だいたいそんな感じだった」という柔らかな要約のなかで日々を生きていけるのは、記憶が不完全だからだ。すべてを覚えていたら、すべての痛みもまた、初めて感じたのと同じ鮮烈さで、永遠にそこにある。

フネスは21歳で死ぬ。すべてを覚えていた男は、21歳にしてすでに世界のすべての重みを背負っていた。記憶の完全さが呪いなら、すべてを知ることもまた別種の地獄だろう。

ゆっくり消えていく人を愛すること

ここまでは理論の話だった。しかしこの問いは書斎のなかだけにあるものではない。

アルツハイマー病は、記憶を少しずつ奪っていく。最初は最近の出来事から。やがて長年の友人の名前が消え、配偶者の顔がわからなくなり、自分が誰であるかがわからなくなる。ロックの枠組みに従えば、意識の連続性が断たれた時点でその人はもう「同じ人」ではない。パーフィットの基準に照らしても、心理的連続性が大きく失われれば、同一性の根拠は消える。

では、家族は何を愛しているのか。記憶を失ったその人のなかに、かつてのその人は「いる」のか。哲学の道具で測れば、同一性はとうに怪しくなっている。それでも家族はその人を愛し続ける。その愛は何に向けられているのか。

ロックもパーフィットも、この問いには答えてくれない。すべてはいつか消える。哲学に言えるのは、せいぜいそれくらいのことだ。


ここまで読んで、何か救いのある結論を期待していたなら、最初に言ったとおり、用意していない。

知識の定義は壊れたまま放置されている。記憶は想起のたびに書き換わる。科学は自らが暫定的であることを認めている。確信は正確さを保証しない。集団の合意すら嘘をつく。写真を撮っても体験は保存されない。すべてを覚えていたとしても、そこに待っているのは地獄だ。

あなたが覚えている子どものころの風景は、何度も思い出すうちに脳が書き直した改訂版だ。あなたが「知っている」と思っている事実は、まだ反証されていないだけの仮説にすぎない。あなたの人生の物語は、あなたの脳が毎日こっそり書き直している、作者不在の長編小説だ。

『ブレードランナー』のレプリカントは、植えつけられた記憶を「自分の過去」として生きていた。フィリップ・K・ディックが1968年に書いた原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、記憶が自己の土台であるという信念の上に立つ存在が、その土台を引き抜かれたとき何が残るのかを問うた。SFの話だ。でも、私たちの記憶もまた、想起のたびに再構成され、偽の記憶と区別がつかず、正確さを保証する手段を持たない。フィクションと現実の差は、思っているほど大きくない。

私たちは自分が誰であるかを記憶によって知り、世界が何であるかを知識によって知る。あの日こうした。あの人とこう出会った。これは事実だ。あれは真実だ。けれどその記憶のすべてが疑わしく、知識のすべてが暫定的であるとき、「私」という構造物は何の上に立っているのだろう。

答えはない。そして、たぶん最初からなかった。

それでもあなたは明日、何かを「知った」つもりで、何かを「覚えている」つもりで、自分が昨日と同じ自分であるという根拠のない確信を抱いて、眠りにつくだろう。

それがこの問いの本当に残酷なところだ。答えがないことではない。答えがないと知りながら、知っているふりをして、覚えているふりをして、自分であるふりをして、生き続けなければならないことだ。

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