鎖を愛した動物

自由について真剣に考えたことのある人間は、おそらく全員が不幸になった。

なぜなら、自由とは何かを突き詰めていった先に残るのは、自分が自由ではないという確信だけだからだ。「自由に生きたい」と誰もが口にする。けれど、その「自由」が具体的に何を指すのか説明できた人間を、少なくとも私は知らない。

私たちは自由を信仰している。定義もできないまま、それが善いものだと信じて疑わない。これは宗教と何が違うのだろう。

定義できない信仰

ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』(1859年)で「危害原則」を示した。他者に危害を加えない限り、個人の自由は制限されるべきではない、という考え方だ。

明快に聞こえる。しかし、ほんの少しだけ立ち止まってほしい。

「危害」とは一体何なのか。殴ることは危害だろう。では、深く傷つく言葉はどうだろう。不快な表現を公の場にさらすことは。ある人間の存在そのものが、別の誰かにとっての脅威であるとき、ミルの原則は何も言わない。

「危害」の意味について、人類は一度も合意に至っていない。原則だけが宙に浮いて、その下で人々はそれぞれの「自由」を好き勝手に振りかざしている。私たちは同じ言葉を使いながら、まるで違うものを指している。言葉が通じているという幻想だけが、かろうじて社会をつなぎ止めている。

そもそも、自由を定義しようとする行為自体が、自由の否定ではないか。定義するとは境界を引くことだ。境界の内側にあるものだけを「自由」と呼ぶなら、それは最初から制限された自由でしかない。

自由は、語ろうとした瞬間に死ぬ。

安全という降伏

トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』(1651年)は、自然状態の人間を「万人の万人に対する闘争」として描いた。絶え間ない恐怖の中で、誰もが誰をも殺しうる世界。人間の生は「孤独で、貧しく、汚く、残忍で、そして短い」。そこから逃れるために、人間は自らの自由の一部を主権者に差し出し、秩序を買う。これが社会契約だ。

つまり、社会とは最初から自由の放棄の上に建てられている。私たちが「文明」と呼んでいるものの土台は、降伏だ。

この取引は今も、静かに、着実に進行している。

街中に増殖する監視カメラを見てほしい。あれは「安全のため」に設置される。犯罪の抑止になると説明される。実際にそうかもしれない。だが、カメラが一台増えるたびに、私たちの振る舞いは無意識のうちに矯正されている。「見られているかもしれない」という感覚が、行動を内側から規制する。

ジョージ・オーウェルが『一九八四年』(1949年)で描いたディストピアでは、テレスクリーンが市民を監視していた。しかし、オーウェルの真の恐怖は、外側からの監視そのものではなかった。人々が監視を内面化し、自発的に「正しく」振る舞うようになること。強制のない服従。それが支配の完成形だ。しかし裏を返せば、もし一切の監視がなくなったら、人間は同じように「正しく」振る舞うだろうか。透明人間の倫理が突きつけるこの問いに、2400年経っても答えは出ていない。

犯罪率がゼロになる代わりに、あなたのすべての行動が記録される世界があるとして。あなたはそこに住みたいだろうか。もし「住みたい」と答えるなら、それはすでに幸福という自殺への一歩かもしれない。

おそらく、少なくない数の人が「住みたい」と答える。安全は自由よりもわかりやすい。測定できる。数字にできる。「犯罪件数が何パーセント減少しました」という報告は、「自由が何パーセント失われました」という警告よりも、はるかに説得力がある。

自由の価値は、失われるまで見えない。そして失われたことにすら、気づけないかもしれない。

誰も線を引けない

表現の自由に限界はあるべきだと多くの人が言う。ヘイトスピーチは許されない、差別的な表現は規制すべきだ、と。おそらく、その主張自体に反対する人は少ない。

しかし、「限界」はどこにあるのか。その線は、誰が引くのか。

政府が引けば、それは検閲と呼ばれうる。社会的合意に委ねれば、「合意」とは結局のところ、そのときの多数派の感覚でしかない。少数派の表現が多数派にとって不快であるとき、それは「越えてはならない線」の向こう側へ追いやられる。

ここに、解きようのない構造がある。自由を守るためには制限が必要だが、制限は自由を殺す。秩序のない自由は混沌であり、自由のない秩序は抑圧だ。そのあいだのどこかに正解があるはずだと、私たちは信じたがっている。だが、その「正解」を見つけた文明は、過去にひとつも存在しない。そもそも善も正義もないのだとすれば、線を引くための基準そのものが最初からなかった。

あるいは、線など最初から引けないのかもしれない。引けないものを引こうとし続けているから、永遠に争いが終わらないのかもしれない。

だとすれば、表現の自由をめぐるあらゆる議論は、解決を目指しているのではなく、解決が不可能であるという事実から目をそらし続けているだけなのかもしれない。

多数決という暴力

民主主義は自由を守る制度だと教わる。しかし、民主主義の核にあるのは多数決であり、多数決とは、51パーセントの意志が49パーセントの意志を制度的に踏みつぶすことを正当化する仕組みにほかならない。

もちろん、立憲主義や司法審査、人権保障といった仕組みで少数派を守る工夫はある。しかし、それらの制度はすべて、多数派が「守ろう」と合意したから存在している。多数派がその合意を撤回すれば、崩壊する。歴史は、民主的な手続きを経て権威主義が台頭した例を何度も知っている。

民主主義は「みんなの自由」を守っているのだろうか。それとも「多数派がそのとき認めた範囲の自由」を配給しているだけなのだろうか。

もし後者だとすれば、私たちが「自由な社会」と呼んでいるものは、たまたま今の多数派が寛容であることに依存した、きわめて脆い構造物にすぎない。多数派の気分が変われば、自由は一夜にして蒸発する。

それを知っていてなお民主主義を信じるのは、勇気なのだろうか。それとも、他に選択肢がないことへの諦めなのだろうか。

逃走先はない

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』(1941年)は、近代人が獲得した自由の重さを描いた。中世の人間は不自由だったが、その不自由さの中に居場所があった。社会的な役割があらかじめ決まっていて、何をすべきか迷う必要がなかった。近代はその枠を壊し、人間に自由を与えたが、同時に孤独と不安も与えた。

そして、自由の重さに押しつぶされた人間は、自ら進んで権威に服従する。フロムはナチズムの台頭を、そのように分析した。

80年以上前の話だ。だが、今の私たちは何をしているだろう。

アルゴリズムが選んだ情報を受動的に流し込まれ、「いいね」の数で発言の価値が測られ、炎上を恐れて沈黙する。誰に命令されたわけでもない。私たちは自分の意志で、自由を差し出している。もっとも、その「意志」が本当に自分のものかどうかはまた別の深淵だ。

フロムの時代、人々の逃走先は独裁者だった。では今、私たちはどこに逃げているのか。アルゴリズムか。世間体か。「正しさ」という名前の空気か。

いや。逃走先があるというのは、まだ救いのある話だ。

本当に恐ろしいのは、逃げる必要すらないほど、私たちが不自由を自然なものとして受け入れていることかもしれない。鎖がなくても動こうとしない動物。檻の扉が開いていても、外に出ない動物。鎖のない牢獄の住人には、鎖を断ち切る必要すらない。

それは自由の喪失ではない。自由を望む能力そのものの消滅だ。

何も解決しない

ここまで読んで、何かが見えてきたと思っただろうか。何も見えていない。最初から、何も見えるはずがなかった。

自由とは何か。安全のために自由はどこまで制限できるのか。「迷惑」の範囲は誰が決めるのか。線は誰が引くのか。民主主義は自由を守れているのか。

これらの問いに、2500年の哲学は答えを出せていない。これからも出せないだろう。

問い続けることに意味がある、と言えたら美しい。けれど正直に言えば、問い続けた先に何があるのかも、わからない。おそらく、何もない。意味を求めること自体がなのだとすれば、この問いかけは症状にすぎない。

私たちはそのうち問うことすらやめて、監視カメラの下を何も感じずに通り過ぎ、多数決の結果を静かに受け入れ、アルゴリズムが差し出すものを消費する日常に戻る。岩はまた転がり落ちる。明日にはこの文章のことも忘れている。

それでいいのかもしれない。少なくとも、それは安全だから。

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