愛さなければ傷つかない

ある詩人が親友を亡くして書いた一行を、別れたばかりの人間がSNSに貼りつけている。文脈も知らないまま。

「愛して失うことは、まったく愛さないよりもよい」

みんな頷く。引用して、いいねを押して、それで何かが救われた気になる。

でも、本当にそう思っているだろうか。

読まれない詩の一行

1850年、アルフレッド・テニスンは親友アーサー・ヘンリー・ハラムの死を悼んで長大な哀歌 In Memoriam A.H.H. を発表した。その第27篇に、あの一節がある。

'Tis better to have loved and lost

Than never to have loved at all.

ハラムはウィーンで脳出血により急逝した。テニスンがこの哀歌を書き上げるまでに17年を要している。17年、喪失と向き合い続けた末の言葉だ。それを僕たちは気軽にコピー・アンド・ペーストする。

ただ、テニスンのこの一行は主張というよりも祈りに近い。直前の行で彼はこう言う。「I hold it true, whate'er befall」。何が起ころうとも自分はそう信じる、と。信じる、という言葉を使わなければならない時点で、そこには確信ではなく、揺らぎがある。

17年かけてたどり着いた結論が「信じたい」だった。それを僕たちはどう受け取ればいいのだろう。

愛の帳簿

もし合理的に考えるなら、愛は投資に似ている。

時間と感情を注ぎ込み、リターンとして幸福を得る。やがて失う。元本は戻らない。ならば、最初から投資しなければ損失はゼロだ。完璧な戦略に見える。

でも、この計算にはひとつ前提がある。幸福と苦痛が同じ尺度で測れるという前提だ。10の幸福を得て、10の苦痛を味わったら、ネットはゼロになるのか。

ならないだろう。

美しい記憶は時間とともに美化される。痛みもまた、時間とともに変質する。しかし消えはしない。美しさと痛みは別々の場所に格納されて、それぞれ勝手に発酵していく。差し引きなど、本人にすらできないのではないか。

帳簿をつけようとした時点で、たぶん間違っている。苦しみには値段がつかないし、感情は複式簿記に向いていない。

賢い臆病者たち

「傷つきたくないから好きにならない」

これは現代において、かなり正直な告白だ。少なくとも嘘はない。

キルケゴールは1844年に『不安の概念』を書いた。不安とは、自由の前に立つ人間のめまいのようなものだと彼は考えた。可能性がある、ということそのものが不安を生む。愛することができるということは、失うことができるということでもある。可能性それ自体が、もうすでに痛い。

だから愛さないことを選ぶ人がいる。防衛としては正しい。傷つく可能性を完全に排除できる。ただ、それは同時に、ある種の可能性をすべて閉じることでもある。

臆病と呼ぶのは簡単だ。でも、一度でも本当に深く傷ついたことがある人にとって、二度と同じ痛みを味わいたくないという判断は、十分に合理的だ。

問題は、合理的であることが正しいかどうかだ。

もっと言えば、正しさを求めること自体が、ここではずれているのかもしれない。

名前をつけた時点で負ける

恋愛の話だと思っただろうか。

犬を飼ったことがある人なら知っているはずだ。犬の寿命は人間よりずっと短い。飼った瞬間から、いつか失うことが確定している。それでも飼う。名前をつけて、散歩して、一緒に昼寝をして、ある日、覚悟していたはずの別れがやってくる。

覚悟していたはずなのに、覚悟なんて何の役にも立たない。

友情にも同じことが言える。家族にも。人間関係のすべてにおいて、相手を大切に思えば思うほど、失う痛みは大きくなる。テニスンの問いは恋愛に限った話ではない。いずれ終わるということそのものに向けられている。

レヴィナスは『全体性と無限』(1961)の中で、他者との関係こそが倫理の出発点だと論じた。自己のうちに閉じこもるのではなく、他者の顔に応答すること。それが人間の在り方の根本だ、と。

もしそうなら、愛さないという選択は、単なる防衛ではなく、倫理的な後退でもある。

ただし、それをレヴィナスに言われたところで、痛いものは痛い。応答し続けた人間から壊れていく。哲学は慰めにならない。

時間は優秀な麻酔科医

「時間が解決する」と人は言う。善意で言ってくれていることはわかっている。

でも、時間がやっているのは、おそらく解決ではない。痛みの輪郭がぼやけるだけだ。鋭かったものが鈍くなる。泣かなくなる日が来る。でもふとした瞬間に、あの人が好きだった曲が流れてきたとき、輪郭はまた一瞬だけはっきりする。

解決したのではなく、麻酔が効いているだけかもしれない。どうせ全部消えるのだとしても、消えるまでのあいだ、痛みは律儀にそこにいる。

そして麻酔は、ときどき切れる。

手放せという矛盾

仏教は「執着を手放せ」と説く。愛するが、執着しない。美しい理念だ。

でも、これは実際に可能なのだろうか。誰かを愛しながら、その人がいなくなっても平気でいられる。それを愛と呼べるのか。あるいは、それこそが愛の最高形態なのか。

もし矛盾があるとすれば、僕たちはその矛盾ごと生きている。完全に手放すこともできず、完全にしがみつくこともできない。その中間の、名前のつかない場所で、ほとんどの人が暮らしている。

名前のつかない場所には地図がない。だから誰もが迷っている。迷っていることに気づいている人と、気づいていない人がいるだけだ。

何も解決しない

テニスンの問いに200年近く、誰も答えを出せていない。

愛して失った人は「それでも愛してよかった」と言う。愛さなかった人は「これでよかった」と言う。どちらも自分の選択を肯定しないとやっていけないだけかもしれない。

そして、この問いのいちばん厄介なところは、たぶん、愛するかどうかを自分で選べると思っていることにある。好きになるなと言われて好きにならずにいられるなら、誰も苦労していない。愛は選択の問題ではない。気がついたらもうそこにあるものだ。防衛策を講じる暇もなく。

だとすれば、「愛して失うのと、最初から愛さないのと、どちらがましか」という問いは、最初から成立していないのかもしれない。

選べないものについて「どちらが良いか」と問う意味はあるのか。

あるいは、選べないからこそ、問わずにいられないのか。

真夜中に、眠れない夜に、ふとこの問いが浮かんだとしても、たぶん何も解決しない。朝になれば忘れる。でも、また思い出す。

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