苦しみは何も教えない

「あの苦しみがあったから今の自分がある」。誰もが一度は口にし、一度は信じようとした言葉だ。美しい。感動的ですらある。そして、おそらく嘘だ。

少なくとも、嘘でないという保証はどこにもない。苦しみがあなたを「成長させた」のか、それとも苦しんだという事実をあとから意味のある物語に仕立て上げただけなのか。その区別を、あなたは本当につけられるだろうか。

正当化と合理化の見分けがつかない

「あの経験があったから強くなれた」。

心理学にはポスト・トラウマティック・グロース(Post-Traumatic Growth, PTG)という概念がある。逆境を経験した人間がその後に心理的な成長を遂げるという現象で、1990年代にテデスキとカルフーンによって提唱された。困難のあとに人が変わりうることは、実証的にも確認されている。

だが、ここで少し立ち止まりたい。

PTGは、「苦しみそのものに意味があった」とは言っていない。苦しみのあとに人が変化しうると言っているだけだ。つまり、成長は苦しみの結果であって、苦しみの目的ではない。この区別はささやかに見えて、実はとても大きい。

苦しんだ過去を振り返り、「あれがあったから今がある」と語るとき、私たちは二つのことのどちらかをしている。一つは、経験を正当に評価すること。もう一つは、そうでもしなければ耐えられない記憶に、受け入れ可能な衣を着せること。前者を正当化(justification)、後者を合理化(rationalization)と呼ぶなら、問題はきわめて単純だ。

自分がどちらをしているのか、当人には永遠にわからない。(私たちが過去の偶然を「必然だった」と語り直す癖については「人生に筋書きはない」でも書いた。苦しみの意味づけも、おそらくその変種だ。)

救われたい人間の前で哲学は黙る

ヴィクトール・E・フランクルは精神科医であり、第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に収容された。その経験を記録した『夜と霧』のなかで、フランクルはこう説いている。人間からあらゆるものを奪うことができるが、ただ一つ、与えられた状況でどのような態度をとるかを選ぶ自由だけは奪えない、と。

この洞察は深い。フランクルの生涯を知れば、その重みは計り知れない。

だが、ひとつだけ残酷な問いがある。

いま、まさに苦しみの渦中にいる人間に対して、「その苦しみにも意味を見出せる」と言ったとして。その言葉は、その人を救うだろうか。

おそらく、救わない。少なくとも、苦しんでいるその瞬間には届かない。フランクル自身の言葉が力を持つのは、地獄を通過したあとの回顧として語られるからだ。渦中にいる人間にとって、「意味」は手の届かない高い棚の上にある。見えてはいる。だが、手は届かない。

フランクルが間違っているという話ではない。ただ、正しいことと、役に立つことは、しばしば同じではない。(フランクルの「意味への意志」については「意味という病」でも別の角度から書いた。)そして、苦しんでいる人間がほしいのは正しさではなく、たいてい、もっと素朴な何かだ。(その素朴な何かを差し出し続けた人間に何が起こるかは「優しい人から壊れる」に書いた。)

悲しむ暇のある人々

ここで少し視点を変えたい。

苦しみの意味を問うこと自体が、ある種の余裕を前提としている。明日の食事がわからない人、爆撃の下で眠る人、慢性的な痛みと戦い続ける人。彼らに向かって「苦しみの意味とは何か」と問うことは、控えめに言って、無神経だ。

悲しみをじっくり味わい、その質感を言語化し、意味を問う。この営み自体が、ある水準の安全と余暇を必要とする。つまり、苦しみについて哲学すること自体が、すでに特権的な行為かもしれない。

これは苦しみの哲学に対する反論ではない。ただの事実の確認だ。

そして、この事実を認めたうえでなお苦しみについて考えようとするなら、私たちは少なくとも自分の足場がどこにあるのかを知っておく必要がある。安全な場所から「苦しみには意味がある」と語ることの、その気楽さについて。私たちの手は、温かいコーヒーカップを持っている。(この距離がどれほど道徳を歪めるかについては「あなたはもうボタンを押している」で書いた。)

退屈という静かな地獄

仏教の四諦(したい)は、苦(dukkha)が存在の根本的な性質であると説く。第一の苦諦は、生きること自体が苦を伴うと指摘する。第二の集諦は、苦の原因を渇愛(taṇhā)に求める。仏教は苦から逃れよとは言わない。苦がどこから来るのかを見よ、と言う。

ここで少し飛躍するが、退屈は苦しみだろうか。

もし苦がたんに「思い通りにならないこと」を含むのなら、退屈は確かに苦の一形態だろう。退屈とは、意味を求めて何も見つからない状態のことだ。痛みではない。恐怖でもない。ただ、ひどく空虚で、それでいて不快だ。

ニーチェは『偶像の黄昏』(1888年)のなかで、こう書いた。「私を殺さないものは私を強くする」(「箴言と矢」第8番)。この言葉はあまりに有名になりすぎて、もはや意味が摩耗している。だが、あえてこの箴言に退屈をぶつけてみたい。

退屈は人を殺さない。だが、強くもしない。退屈はただそこにある。静かに、執拗に、何も与えずに。(なぜ人はそこから目を逸らさずにいられないのかについては「暇が怖いだけ」で掘り下げた。)

もし退屈が最も軽い苦しみだとするなら、私たちがSNSをスクロールし、動画を再生し、予定を詰め込むのは、結局のところ、最も穏やかな苦しみからすら逃げ続けているということにならないだろうか。そして、その逃走を「充実」と呼んでいるだけではないだろうか。(退屈と反復のあいだで生きることについては「何も起きなかった日」でも考えた。)

痛みを消す薬

思考実験をしよう。

もし、苦しみを一切感じなくなる薬があったら、あなたは飲むだろうか。

副作用はない。記憶もそのまま。ただ、苦痛、悲嘆、喪失感、孤独感、そういった一切の負の感情が消える。快楽は残る。知性も損なわれない。完璧な薬だ。

飲む、と即答した人に問いたい。苦しみを感じないあなたは、まだ「あなた」だろうか。ミルがかつて問うた満足した豚と不満足なソクラテスの選択が、ここで静かに重なる。

シモーヌ・ヴェイユは、通常の苦しみと「不幸」(malheur)を区別した。ヴェイユのいう不幸とは、たんなる苦痛ではない。身体的な痛みと、社会的な排除と、魂の破壊が同時に起こる経験のことだ。不幸は人格を内側から空洞にし、人間をものに変えてしまう。ヴェイユは「神への愛と不幸」のなかでその恐ろしさを記述している。

薬が消すのは「苦痛」であって、ヴェイユのいう「不幸」ではないかもしれない。だが、仮に不幸をも含むあらゆる苦しみを消せるとしたら。そのとき残る「あなた」は、何だろう。

快適で、穏やかで、何も感じない、空っぽの何か。(ノージックの経験機械を通じて似た問いに触れた「それでも明日の朝また幸せになりたいと思ってしまう」も参照。)

何も解決しない結語

この記事は何も解決しなかった。苦しみに意味があるかどうかもわからない。正当化しているのか合理化しているのかもわからない。退屈から逃げているのか向き合っているのかもわからない。苦しみを語ること自体が特権なのかどうかすら、結論が出ない。

わかったことがあるとすれば、「わからない」ということだけだ。そして、おそらくこの先もわからない。

最後に、あなたに問いを残しておく。

あなたがこれまで経験した最もつらい出来事を思い浮かべてほしい。そしてこう問いかけてみてほしい。

あの苦しみがなかった人生を生きている別の自分がいるとしたら。その自分は、今のあなたより幸せだろうか。

それとも、その問い自体が、すでに間違っているだろうか。

あるいは、もっと厄介なことに。問いが間違っていると気づいてもなお、あなたはその問いを手放せないのではないだろうか。

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