誰のせいでもない

Share

あなたが最後に誰かに怒りを覚えたとき、その怒りには根拠があっただろうか。もう少し正確に聞こう。あなたが怒ったということそのものが、あなたの意志による選択だったと、本気で信じているだろうか。

もしすべてが因果の連鎖で決まっているのなら、犯罪者を罰することに正当性はあるのか。素朴に考えれば「悪いことをしたのだから罰を受けるべきだ」と言いたくなる。しかし、「悪いことをした」というその文の主語は、本当にその人自身なのか。遺伝子、環境、脳の構造、幼少期の記憶、あるいはただの化学反応。「その人」は、いったいどこにいるのだろう。

壊れた時計を叱る人

「育った環境が悪かったから」という言葉を聞くと、多くの人が不快になる。甘えだ、言い訳だ、と。しかし、この不快感そのものがひとつの思考停止であることに気づいている人は、どれほどいるだろう。

決定論(determinism)という立場がある。この宇宙で起きるすべての出来事は、それ以前の出来事によって因果的に決定されている、という考え方だ。ビリヤードの球がぶつかれば次の球が動くように、あなたの脳内の神経発火もまた、それに先立つ物理的条件によって決まっている。あなたが今この文章を読んでいることも、読んだ後に何を考えるかも、宇宙の初期条件から連綿と続く因果の帰結にすぎない。

この立場を徹底すると、いわゆるハード・デターミニズムに行き着く。自由意志は幻想であり、したがって道徳的責任もまた幻想である、と。あなたが朝起きられなかったのは怠惰ではなく、あなたの脳がそうした振る舞いをするように配線されていたからだ。犯罪者が罪を犯したのは、その人が「悪い人間」だったからではなく、遺伝子と環境と脳の状態が、その行為を必然的に生んだからだ。

壊れた時計に怒鳴っても、時計は直らない。壊れた時計に「反省しろ」と言っても意味はない。もし誰も何も選んでいないのだとしたら、人間に対して怒ることは、それと本質的に何が違うのだろう。

腫瘍がトリガーを引いた

1966年、テキサス州オースティンで、元海兵隊員のチャールズ・ホイットマンが大学の時計塔から銃を乱射し、16人を殺害した。事件の数時間前には、母親と妻も手にかけている。

ホイットマンは犯行前に手記を残している。自分のなかに「不合理な思考」が湧き上がることへの困惑。自分自身が理解できないという告白。そして、自分の死後に脳を解剖してほしいという依頼。彼には、自分のなかの何かがおかしいという自覚があった。

検死解剖の結果、ホイットマンの脳からは、扁桃体を圧迫する腫瘍が発見された。扁桃体は恐怖や攻撃性の調節に関与する領域だ。この腫瘍が彼の行動に影響した可能性は十分にある。もちろん、腫瘍があれば必ず暴力的になるわけではないし、腫瘍がなくても暴力をふるう人はいる。因果関係は単純ではない。

しかし、この事件はひとつの不穏な問いを突きつける。もし腫瘍が彼の衝動を制御不能にしていたのだとしたら、ホイットマンを「悪人」と呼ぶことに、どれほどの意味があるのか。

これは遠い過去の例外的な話ではない。近年、神経科学的証拠を刑事裁判に持ち込むケースは増加している。脳画像や神経学的データが被告人の弁護に用いられ、法廷は「この人の脳がこの行為を引き起こしたのだとしたら、この人をどう裁くべきか」という問いに直面している。ある研究によれば、殺人裁判で神経科学的証拠が提示された場合、およそ85%のケースで裁判所の判断に何らかの影響を与えたという。

罰するのか、治療するのか。その境界は、あなたが思っているよりもずっと曖昧だ。

あなたの怒りも決まっていた

ここでひとりの哲学者の名前を出したい。P・F・ストローソン。1962年に発表された論文「自由と憤り(Freedom and Resentment)」は、この問題に対するもっとも独創的な応答のひとつだ。

ストローソンの議論を簡潔にたどる。私たちが他者に対してとる態度、たとえば憤り、感謝、愛情、軽蔑といった「反応的態度(reactive attitudes)」は、人間同士の関係性のなかで自然に生じるものである。誰かに突き飛ばされたら怒りを感じるし、助けてもらえば感謝する。それは理屈で選んでいるのではなく、人間という存在のあり方そのものに根ざした態度だ。

ストローソンの巧みなところは、「自由意志は存在するか」という形而上学的問いをそもそも迂回した点にある。決定論が真であろうと偽であろうと、私たちは実際に怒り、感謝し、愛し、憎む。この反応的態度こそが道徳的責任を支える基盤であり、それは宇宙の因果構造がどうあれ、私たちの関係性のなかで機能し続ける。つまり、責任とは物理学の問題ではなく、人と人との関わり方の問題だ、と。

美しい答えに見える。

しかし、本当にそうだろうか。

もしあなたの怒りが、あなた自身の選択ではなく脳の化学反応の帰結にすぎないのなら、その怒りに基づいて人を罰することは、果たして「正当」と呼べるのだろうか。ストローソンは反応的態度を「自然なもの」だと言った。しかし、自然であることと正当であることは、まったく別の話だ。空腹のときに苛立つのは自然だが、それを理由に隣の人を殴ってよいわけではない。

ストローソンは、私たちが怒りを手放せないことを見事に示してみせた。しかし、その怒りが正しいかどうかについては、何も言っていない。

裁く者がどこにもいない

話をもう少し広げてみよう。

もしすべてが因果律で決まっているなら、犯罪者の行為が必然であったのと同じように、あなたがその犯罪者を憎むこともまた必然だ。裁判官が有罪判決を下すことも必然であり、囚人が独房で後悔することも必然であり、あるいは後悔しないことも必然だ。

この世界には、本当の意味で「裁く者」がいない。あなたの義憤も、裁判官の判決も、法を作った人間の意志も、すべてはビッグバンから連なる因果の一コマにすぎない。罰することそれ自体が宇宙に組み込まれた反応でしかないのなら、そもそも善も正義もないのではないか。

自由意志がなければ怒りに意味はない。しかし、怒りに意味がないとわかっても、怒りは消えない。私たちは意味のない怒りを抱えたまま、意味なく罰し続ける。苦しみは何も教えない。これが人間の条件なのだとしたら、それはあまりにもグロテスクではないか。

しかし、ここで立ち止まるべきではない。この問いはもっと遠くまで届く。

「あの人は生まれつき善い人だ」と言うことが許されるなら、その裏返しとして「あの人は生まれつき悪い人だ」も許されることになる。そして、「生まれつき」が文字どおりの意味、つまり遺伝子と初期環境によって決定された性質を指すのだとしたら、私たちが「性格」や「人柄」について語るたびに、実はその人が選べなかった何かについて語っていることになる。

「あの人は優しい」。ありがとう。でも、それは選んだわけではない。

「あの人は冷たい」。ごめん。でも、それも選んだわけではない。

私たちは毎日のように人を評価し、称賛し、非難する。しかし、もしその評価の対象が「本人が選べなかったもの」であるなら、称賛も非難も、ただの天気予報のようなものだ。「今日は晴れです」と同じ程度の意味で、「あの人は善い人です」と言っているだけなのかもしれない。そこに筋書きはない。あるのは偶然だけだ。

残るのは問いだけだ

答えは用意していない。用意できるとも思わない。

もしあなたがこの文章を読んで何かを感じたなら、その感情もまた、あなたの脳の配線とこれまでのすべての経験の産物だ。共感も、反発も、退屈も。この文章を書いている人間の意図すら、因果の鎖に繋がれている。

自由意志があるのかないのか。責任は存在するのかしないのか。この問いに対する哲学の歴史は長いが、決着はついていない。おそらく、つかない。

ただ、ひとつだけ確かなことがある。

あなたが明日、誰かに怒りを覚えたとき。あるいは誰かを許そうとしたとき。あるいは、赦せないまま死ぬのだとしても。その行為が「あなた自身の自由な選択」であったかどうかは、永遠にわからない。わからないまま、あなたはそれでも怒り、それでも許し、それでも生きていく。

それが救いなのか、それとも、もっとも残酷な呪いなのか。

それすらも、あなたが決められることではないのだけれど。

Read more

Dependabotの対応が面倒なのでRenovateを導入する

Dependabotくんはある程度の依存関係の更新を通知してくれるが、山のようにprojectを抱えているとなんとも痒いところに手が届かない。 ということで、Renovateを使ってみる。 Build software better, togetherGitHub is where people build software. More than 150 million people use GitHub to discover, fork, and contribute to over 420 million projects.GitHub ここからGitHub Appを入れる。 あとは、指示に従ってポチポチするだけで、超かんたんだった。 感想 自動化最高。

By Sakashita Yasunobu

nodejsのバグを見つけたのでPRを投げてみた

概要 要するに、node --testで特定のバイナリを標準出力に書くと、テストランナーが固まったり、異常終了したりするバグです。 バグ自体は既知のものだったようで、修正がされていました。 test_runner: infinite loop in FileTest#drainRawBuffer when child stdout contains FF 0F followed by large size bytes · Issue #62693 · nodejs/nodeVersion v25.9.0 (also reproduced on v24.14.1 LTS, v22.21.0 LTS, v23.4.0) Platform Darwin 25.

By Sakashita Yasunobu
青空文庫のParser

青空文庫のParser

青空文庫のParserを作ってます。 GitHub - P4suta/aozora: Pure-functional Rust parser for 青空文庫記法 (Aozora Bunko notation): ルビ, 傍点, 縦中横, 外字, 返り点, indent containers, page breaks.Pure-functional Rust parser for 青空文庫記法 (Aozora Bunko notation): ルビ, 傍点, 縦中横, 外字, 返り点, indent containers, page breaks. - P4suta/aozoraGitHubP4suta Rustで作ってますが、配布物はcargoのほかにnpm/pypiでも入手できます Documentation * Playground — try it in

By Sakashita Yasunobu