何人殺せば正しくなるのか

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ある思考実験がある。

暴走するトロッコの前に、あなたは立っている。このまま放っておけば5人が死ぬ。レバーを引けばトロッコは別の線路に逸れ、5人は助かる。ただし、そちらの線路にいる1人が死ぬ。

あなたはレバーを引くか。

多くの人は「引く」と答える。5つの命と1つの命。どちらが重いかは明らかだ、と。算数としてはこれ以上ないほど簡単な問題に見える。

でも、少しだけ立ち止まってほしい。あなたは今、「人を殺すことが正しい」と言ったのだ。

善意の算数

この思考実験は1967年、イギリスの哲学者フィリッパ・フットが提唱したものだ。のちにジュディス・ジャーヴィス・トムソンがこれを「トロッコ問題」と名づけ、倫理学における定番の思考実験になった。

問いの核はシンプルだ。「より多くの人を救うために、より少ない人を犠牲にすることは許されるか」。功利主義の立場からすれば、答えは明快に思える。全体の幸福を最大化する選択が正しい。5人の命は1人の命より重い。引け。

ところが問題は、この計算がどこまで通用するかだ。

1人を犠牲にして5人を救う。では、1人を犠牲にして100人を救うのは? 1,000人なら? 100万人なら?

数が大きくなるにつれて、「仕方ない」という感覚が強くなる。いや、もっと正確に言えば、「仕方ない」と感じることへの罪悪感が薄れていく。100万人を救うためなら、1人の犠牲は「悲劇」ではなく「必要なコスト」に変わる。10年の値段をつけるように、命にも相場ができていく。

その切り替わりの瞬間を、あなたは正確に指し示すことができるだろうか。

涙が乾く桁

「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ」。

この言葉はしばしばスターリンの発言として引用される。しかし実際には、スターリンが言ったという確かな証拠はない。1947年頃から彼に帰属する形で広まったが、出典は今も曖昧なままだ。

けれど、この言葉が誰のものであれ、そこに描かれている現象は実在する。

心理学者ポール・スロヴィックは、この傾向を**「psychic numbing(サイキック・ナミング)」**と呼んだ。人間の共感能力は、苦しむ人の数が増えるほど鈍くなる。1人の子どもの写真には涙を流せるのに、数千人の難民の統計には何も感じない。87人と88人の差は、私たちの感覚にとってほとんどゼロだ。

つまり、命の価値が一定であるという前提は、私たちの心の仕組みそのものによって裏切られている。人間の道徳的感覚は数に対して線形ではない。1人の命の「重さ」は、その背後にいる人数が増えるほど、静かに、確実に、軽くなっていく。

これは人間の欠陥だろうか。それとも、そうでなければ私たちは正気を保てないのだろうか。優しい人から壊れるのは、この鈍麻に逆らおうとした人間だけだ。

清潔な手のまま

トロッコ問題をもう少し不愉快にしよう。

犠牲になる1人が、あなたの子どもだったら? あなたの親友だったら? あるいは、あなた自身だったら?

数の計算は一瞬で吹き飛ぶ。5人だろうが100万人だろうが、「その1人」が自分に近い存在であるだけで、功利主義の方程式は破綻する。そしてほとんどの人は、その破綻を「間違い」だとは感じない。

カントは、人間を「単なる手段」として扱ってはならないと説いた。定言命法の第二の定式、いわゆる「人間性の定式」だ。1人を犠牲にして5人を救う行為は、その1人を「5人のための道具」にしている。犠牲にされる人数が何人であろうと、この構造は変わらない。

だが、現実はどうか。

徴兵制は「国を守るために個人の命を差し出させてよい」という前提の上に成り立っている。臓器移植の優先順位は、限られた臓器を誰に配分するかという計算だ。救急医療のトリアージは、助かる見込みのある人とない人を選別する行為そのものだ。

社会は、とっくに「何人なら正しいか」の計算をしている。あなたはもうボタンを押している。思考実験の中でためらっている間に、とっくに。

道徳は数学か

ここまで読んで、何か答えが見つかっただろうか。

おそらく、見つかっていない。

功利主義は「最大多数の最大幸福」を掲げるが、犠牲にされる側の同意を問わない。カントの倫理学は人間の尊厳を絶対視するが、それは「5人が死ぬのを黙って見ていろ」とも読める。どちらの理論も、トロッコの前ではどこか息切れしている。善も正義もないのだとしたら、それも当然なのかもしれない。

そしてたぶん、それが重要なことなのだ。

道徳的な問いに対して、すっきりした答えが出ないということ。もし正しさが数で決まるなら、道徳は数学の一分野にすぎない。ならば倫理学者は不要で、電卓があればいい。でも、あなたはたぶん「1人を殺すことが正しい」とは言い切れなかった。その躊躇のなかに、計算では捉えきれない何かがある。

それが何なのかを、まだ誰もうまく言葉にできていない。

あなたの番号は何番か

最後に、もうひとつだけ。

トロッコ問題で「レバーを引く」と答えた人に聞きたい。

その犠牲者を、誰が選ぶのか。そして、選ばれたその1人に、あなたは何と声をかけるのか。

「5人のためだったから」。それは、その人にとって何の慰めにもならない。誰のせいでもないのだとしたら、なおさらだ。

数が正しさを決めるのなら、あなたにも番号がついている。それがいつ呼ばれるかを、あなたは知らない。


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