いいねの海に沈めなかった眼

SNSで「いいね」がたくさん付く写真を見て、何かが引っかかる。美しいのはわかる。技術的にも優れている。でも、好きになれない。この感情を「嫉妬でしょ」の一言で片付けるのは簡単だが、それでは何も分からないままになる。

「嫌い」の中身は一枚岩ではない

SNSで伸びる写真に対する不快感は、少なくとも4つの異なる感情が混在している。

均質化への嫌悪。 タイムラインを流れる写真の多くは、驚くほど似ている。高彩度、シンメトリー、ゴールデンアワーの逆光、同じ観光地の同じ構図。アルゴリズムが「伸びる」写真を選別し、それを見た人が同じような写真を撮り、さらにアルゴリズムが強化する。結果として、個々の写真に罪はなくても、全体として均質な風景が広がる。嫌悪の対象は個別の写真ではなく、この構造そのものである。

演出への違和感。 「映え」のために食べ物を並べ直す。行ったことのない場所で撮ったかのように見せる。被写体が「写真のために」存在している瞬間。そこに感じる不自然さは、「撮るために生きる」と「生きた結果を撮る」の違いに対する感覚的な反応である。

嫉妬。 自分の写真が伸びないのに、似たような写真が数万いいねを集めているのを見れば、苛立ちは生まれる。この感情を認めるのは不快だが、否定しても消えない。

疲労。 SNSを見続けること自体の消耗。無限に流れてくる画像を処理し続けるコスト。「なんとなく嫌」の分解で論じたように、言語化されない不快感は蓄積する。

この4つは独立した感情であり、人によって混合比が異なる。自分の「嫌い」がどれに近いかを把握するだけでも、感情の見通しはかなり良くなる。

嫉妬を認めることの価値

4つの中で最も認めたくないのが嫉妬だろう。しかし、嫉妬を否認したまま「嫌い」を語ると、批評のふりをしたルサンチマンになる。

「伸びる写真は本当の写真ではない」「あれは写真ではなくコンテンツだ」。こうした言い回しは、正当な批評として成立する場合もあるが、嫉妬の合理化として機能している場合もある。区別は難しい。だからこそ、嫉妬が混じっている可能性を最初に認めてしまったほうが、その後の分析が正直になる。

人が比較でしか幸福を測れない理由で述べたように、他者との比較から完全に逃れることは難しい。問題は比較すること自体ではなく、比較の軸を自覚しないまま比較に振り回されることにある。

自分が欲しい承認の種類

「いいね」が欲しいのか。特定の人からの反応が欲しいのか。自分自身が納得したいのか。この区別をしないまま写真を投稿し続けると、指標と目的が入れ替わる。

グッドハートの法則は、「計測指標が目標になると、それは良い指標ではなくなる」という原理である。いいね数を追い始めた瞬間、いいね数は写真の質を測る指標として機能しなくなる。伸びる写真を撮ることが目的になれば、自分が本来撮りたかったものは後景に退く。

永遠の素振りで取り上げた「手段と目的の転倒」は、写真とSNSの関係においても同じ構造で現れる。写真を撮ることが生活を豊かにする手段だったはずが、いつの間にか生活がSNS投稿の素材調達になっている。

伸びる写真が「いい写真」ではない理由

伸びる写真には共通の特徴がある。高い彩度、明快な構図、わかりやすい被写体、感情を即座に喚起するシーン。これらはすべて、スクロールの速度で目を止めるための特性であり、写真としての質の指標ではない。「伸びる写真」とは、SNSという環境に最適化された写真のことである。

レンズは一本でいいで触れたように、機材や技術の選択は本来、自分が何を見たいかから始まるべきものである。しかしSNSの評価軸が支配的になると、「何を見たいか」よりも「何が伸びるか」が判断基準になる。

そこにいなかった人たちで述べた「記録することと経験することの乖離」も、ここに通じる。目の前の風景を見る前にスマホを構える。その瞬間、写真はSNSのための素材として生成され始めている。

「どう距離を取るか」という問い

この記事の目的は「SNSをやめろ」と言うことではない。「じゃあ何を撮るか」に答えることでもない。SNSで伸びる写真に対する嫌悪感を分析し、その感情の構造を理解することである。

距離の取り方はいくつかある。見る頻度を意識的に減らす。投稿しない期間を作る。プリントして物理的に写真を見る。いいね数を非表示にする。どれが有効かは人による。

重要なのは、「嫌い」という感情を放置しないことである。放置すればルサンチマンになる。分析すれば、自分が写真に何を求めているかが見えてくる。嫌悪の裏側には、まだ言語化できていない「こうあってほしい」がある。

自分がどの軸で写真を評価したいのかを決めるのは、アルゴリズムではなく自分自身の仕事である。

まとめ

「SNSで伸びる写真が嫌い」は、分析に値する感情である。その中身は均質化への嫌悪、演出への違和感、嫉妬、疲労が混在しており、一つに還元できない。重要なのは「じゃあ何を撮るか」ではなく、SNSの評価軸と自分の評価軸の距離を自覚することである。嫌悪感は、自分がまだ手放していない基準があることの証拠でもある。

Read more

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu