ボーヴォワール『第二の性』序論を読む
本記事は、大学のゼミにおいてシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』序論を担当した際に作成したレジュメを基にしている。ゼミでの議論や下書き段階での検討内容を踏まえ、加筆修正を施した。
テキストはS・ド・ボーヴォワール『第二の性 I 事実と神話』、『第二の性』を原文で読みなおす会訳、河出書房新社、2023年を使用した。ページ番号は同書に準拠する。
1. 女とは何か (¶1-4|pp. 11-16)
¶1 女がいるかどうかの議論以前に女とはなにかを問うべきである。女であることは生物学的な根拠によって定義されるものでもない。女の本質も存在しない。とすれば、女という範疇自体を否定する立場も成り立ちうる。
ここでの論理を整理しておこう。もし性格が「本質」ではなく「状況への反応」であるならば、女を規定する不変の本質は存在しないことになる。かつて「女らしさ」と呼ばれていたものが今日では存在しないという事実は、もし「女らしさ」が本当に生まれつきの本質だったら状況が変わっても存在し続けるはずだということの反証になっている。つまり、「今日消えた」という事実が、「実は最初から本質としては存在していなかった」ことの証明になるのだ。
¶2 実際にいくつかの学派は、「女」という語は恣意的な指示語の役割をもっているだけで、内実としては何も規定していないと主張する。指示された内容など存在しない、つまり女というもの自体が存在していないわけであるから、男も女も同じ人間として扱われるべきだともいう。これはいわば唯名論的な立場であり、差異を無視することで平等を主張する。しかし、現に存在しているあらゆる違いを否定することは逃避にすぎず、解放ではない。依然として、違いは、あるのだ。
¶3 女が、歴史的にも社会的にも存在している以上、我々の問うべきは「女とは何か」である。
¶4 我々の問いは「女とは何か」であって、「男とは何か」ではない。男は男であるから正しく、基準である。そのため、男はそもそも自分の定義をする必要がないのだ。一方で、女は男という絶対的典型に対する特殊性である。男と女が対称的に扱われるのは形式の上でしかない。むしろ、男は正しさと中立を含み、人間という意味すら包含する。一方で、女は否定的な極にしか属さず、あらゆる規定は制限として課される。
身体についても同様である。男の身体は世界における正常とされ、女の身体は障害物や牢獄とみなされる。論理としては破綻しているのだが、にもかかわらずこの非対称性は厳然として存在している。
2. 女の他者性の構造 (¶5-10|pp. 16-24)
¶5 生物学的な差異はともかく、男と女の非対称性はどこから生まれたのだろうか。歴史を文献からひも解くと、女は欠如しているがゆえに男に対する不完全性、偶然性であると象徴されているとわかる。人間は男であり、男は男であることを基準に定義される一方で、男は女を男との関係によって定義する。女を定義する独自の基準などない。つまり、男が主体であり、絶対者であるのに、女は他者でしかない。
¶6 女が他者であるとして、では他者性というカテゴリー自体はどこから生まれたのだろうか。他者性というカテゴリーは決して恣意的な枠組みではなく、同一者と他者の二元性として、原始の社会・神話においても見いだされる本源的なカテゴリーであるため、人間の思考の基本的カテゴリーである。しかし、原初の同一者と他者の区分に女性的要素はなかった。
¶7 他者性とは、集団は他者を対立させることで自分を一者として定めることである。主体は自分を中心に据えようとし、他の主体を従属関係に置く傾向を持っている。つまり、主体は仲間との連帯だけで自己を一者として成立させるのではない。言い換えれば主体とは、自分を本質的なもの、つまり基準として主張し、他者を付随的な存在、客体として扱おうとするものである。
¶8 もちろん、他者も主体を主張するため、主体の絶対性は失われ、関係の相互性を認めるに至る。しかし、男との女の間では、男が絶対性を主張し、純粋な他者性として女を定義している。さらには女も男の支配に甘んじている。女が自分を他者として定義するのではない。男による他者の定義の押し付けがあるのだ。ではなぜ、女は押し付けられた定義を飲み込んでいるのだろうか。
¶9 たしかに歴史的には、数の上での不均衡が、絶対的支配を実現していた事例はあるが、いずれも何らか歴史的な発展における従属・生成の結果である。自然的条件さえも不変の事実ではない。しかし、女はつねに存在していたのにもかかわらず、いつも男に従属していた。女は主体の反転を行わないのである。女が主体の反転を行わない理由は、女に固有の条件のうちに求められねばならない。
¶10 なるほど、女には固有の過去、歴史、宗教がない。男と女の区分は生物学的与件であって、人類の歴史的要因によって生じたものではない。男と女は社会での不可分な基本単位であるにもかかわらず、共存在の中において対立している。つまり、女は、不可分な存在のなかで他者であるため、女は統一体としての団結手段を持ち合わせていないのである。女が団結手段を持たないとしても、男女の相互依存関係を通じて女が権力を獲得する可能性は残されている。
3. 女の従属はなぜ維持されるのか (¶11-14|pp. 24-28)
¶11 非対称な共存在だが、男も女もお互いを必要としている以上は、女も男に対して権力を持てないだろうか。つまり男の欲望、母子の絆を通じて女が権力を持てるようにも思える。しかし、相互の依存は支配関係の解消には至らない。むしろ、支配–被支配関係は相互依存の中でこそ維持されうる。
¶12 さらに悪いことに、社会は歴史的に男によって作られてきたし、今も男のものである。男によって作られてきた社会において、女は他者である。女は他者と定義されることで、経済的・実存主義的根拠を得ることができる。つまり、女は他者であることで、不幸ではあるが楽な選択ができるのだ。男もまた女のその意図に気づき、関係の相互性を捨てさせる。こうして支配構造は双方から補強されていく。
¶13 では一体、なぜ男が優位性を勝ち取ったのだろうか。なぜ、今になって女は主体を主張し始めているのか。女も主体として共存在を定義しなおすことはいいことなのだろうか。果たして男と女の平等は実現できるのだろうか。
¶14 いまに至るまで女をめぐって数多の議論が交わされてきたが、論争に提出された数多くの回答は男によるものだ。他者の概念にしても、男によって作られた以上は、どれほど妥当かわからない。男によって作られた概念の妥当性を検討するためには、女の従属を正当化してきた言説を批判的に検討する必要がある。
4. 既存の言説への批判 (¶15-23|pp. 28-37)
¶15 女の男への従属は、様々な形で正当化されてきた。
神話においては、イヴやパンドラといった物語を通じて、女は災いの源泉として描かれる。パンドラは人間に対する災いとしてゼウスが創った人類最初の女であり、人間の友として行動したプロメテウスの信用を傷つけるために送り込まれた。パンドラの名は「すべての贈物」を意味するが、神々は彼女の手に人類に災いするすべての悪が入っている壺を持たせていた。彼女が生まれながらの好奇心から壺を開けると、ありとあらゆる悲しみ、病い、喧嘩、苦悩が飛び出した。それまで人類といえば自分たちのことと思っていた男たちは、労苦のない生活を送っていたが、こうして生きていくために労働し苦悩しなければならなくなった、とされる。創世記においてもイヴが蛇に誘惑されて禁断の果実に手を伸ばす。しかしこれは、女が生まれつき狡猾な方法の犠牲になりやすいからではない。むしろ、助け手としての女が男に従うものとして受動的な立場に生かされていることへの着目であるとも解釈される。
哲学においては、アリストテレスを受けてトマス・アクィナスも女を「できそこないの男」とした。他の学問においても、女の従属的地位を証明しようと試みてきたが、一切は男の自己正当化にすぎない。
ローマの法制度を見れば、この構造はさらに明確になる。ローマ法では、家長(paterfamilias)の権力下に、妻は夫に対して娘の位置に置かれ、成人女性であっても法律行為には後見人の承認が必要とされた。紀元前169年に制定されたウォコニア法(Lex Voconia)は、第一財産階級に属する者が女性を遺言相続人に指定することを禁じた。その根拠として持ち出されたのが levitas animi(精神の軽薄さ)という概念であり、女性に固有の精神的弱さが法的制限の正当化に使われた。しかし実際には、この法律は女性の財産が国家の課税対象から逃れることを防ぐ財政的動機が主であったとする研究がある。表向きは道徳的理由を掲げながら、実際には経済的利害が働いていたのだ。紀元前42年には、1400人の最富裕女性への課税に対してホルテンシアが率いる女性たちがフォルムで「意思決定に参加する権利がない者に、税負担を求めるのは不当だ」と演説して抗議している。
¶16 18世紀に入ると、民主的な男によって女も男も同じ人間であることが主張されるようになったが、依然として少数であり、たとえ19世紀にはいっても議論は政治色を含み一層の激しさをましただけであった。議論には科学も加わり差異における平等が認められるようになったものの、結果は極端な差別を生むだけだった。
¶17 女性問題だけでなく、差別における正当化の手法は同じである。支配者は、被支配者を劣った状況に置いた結果に生じた劣等性を、本質的なものだと正当化する。しかし劣等性は固定的本質ではなく、状況によって作られたものである。劣等性が状況によって作られたものであるならば、支配者が現状を維持しようとする理由を問わねばならない。
¶18 多くの男性が形式的な平等にとどまる現在の状況を維持しようとする理由は、経済的利害だけでなく、抑圧構造そのものが抑圧者全体に心理的優越感を保証しているためである。
¶19 あきれることに、男の知識人は、男であることを根拠に歴史上の思想家たちと自己を同一視し、その業績を自らの権威として借用することで、女に対する優越的立場を主張する。
¶20 男が絶対的な主体であり続けたいがためには女を他者に追いやる必要がある。民主主義によって男にも客観的な見方が生まれてきたとはいえ、女の主体を認めることは、男にとって主体の絶対性を失うことなのだ。
¶21 男が主体性を維持する構造は、個々の男の成長過程にも現れる。男は成長していく中で、女の自主性を知り、対等な存在であることを認め平等を維持するが、女が社会では劣った状況に置かれていることを知ると、平等は失われる。
¶22 男と女が対等ではないことを男は差別と同様の手法で正当化する。正当化された議論は、女の精神や思惟様式に強い影響を与えるが、結局のところ男の自己正当化でしかないのだ。
¶23 女が男の議論に対抗して主張する際も、その議論の枠組み自体が男によって設定されたものであるため、結局は男の論理に応答する形にとどまってしまう。男が議論するにしても、女が議論をするにしても、結局は男から見た価値で議論をしているのだ。
5. 本書の方法論と立場 (¶24-28|pp. 37-42)
¶24 女の問題について語ろうにも、男も女も当事者なのだから偏る。それでも、法的権利を獲得した一部の女だけは、客観的分析が可能でありながら女の世界の内側も知る唯一の位置にいる。
¶25 人間の問題を中立的に論じることは不可能だ。問題の立て方自体が論者の価値観を反映しており、客観的記述さえも倫理的背景が伴う。したがって、前提とする原則を冒頭で明示し、いかなる道徳的観点から記述するかを決定せねばならない。
¶26 とすれば問題は、どういった道徳的観点から記述するかである。既存の女性論は公共の福祉を掲げるがこれも結局は特定社会の利益であり、公共の福祉と区別される幸福も支配者が現状維持のために都合よく使う概念だ。公共の福祉も幸福も支配者の都合に利用されうるならば、別の道徳的観点が必要となる。
¶27 すべての主体が対峙する実存主義のモラルでは主体は超越によって自由を実現する。しかし、社会では女が男によって他者として内在に固定され、超越を妨げられている。女が依存状態でいかに自立を回復し自由を実現できるかが、幸福ではなく自由の観点から問われる。
ここでいう実存主義的自由とは何か。超越とは、投企を通じて未来に向かって自己を乗り越え続けることである。この超越が停止し内在(即自、事実性)に堕落すると、自由が失われる。重要なのは、自分で超越を放棄して内在に留まることを選んだ場合は「倫理的な過ち」(自己責任)であるのに対し、他者によって強制された場合は「欲求不満や抑圧」(他者による抑圧)であるという区別だ。ボーヴォワールが問題にしているのはまさに後者であり、女が男によって内在に固定されている状態、すなわち超越を外部から妨げられている状態なのである。
¶28 仮に女に生理的・心理的・経済的宿命があるなら自由の問いは無意味なので、まず生物学・精神分析・史的唯物論を検討する。次に女が他者として社会的・歴史的に構築された過程を実証的に示した上で、女の視点から女に与えられた世界を描き、女が人間の共存在に加わる際の困難を理解する。