ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』第1章 心理的諸状態の強度について
本記事は、大学のゼミにおいてアンリ・ベルクソンの『意識に直接与えられたものについての試論』(Essai sur les données immédiates de la conscience)の第1章を担当した際に作成したレジュメを基にしている。ゼミでの議論や下書き段階での検討内容を踏まえ、加筆修正を施した。
テキストはベルクソン著、合田正人・平井靖史訳『意識に直接与えられたものについての試論』(ちくま学芸文庫、2002年)を使用した。ページ番号は同書に準拠する。
用語集(岩波哲学・思想事典より)
本章を読むにあたって、いくつかの専門用語の理解が前提となる。
延長 (extension)
空間的な広がりのこと。物体は空間の一部分を占め空間においてあるという、物体のそういう在り方を規定する概念。
外延・内包
論理学の用語。記号とその表象している内容の関係に関わる概念。フレーゲによれば、「Xは人間である」というような単項述語の意味として規定される。含むものと含まれるものの関係として理解できる。
強度 (intensité)
質的差異とは異なる量的差異として、しかも外延量とは異なる内包量として規定される差異。
これらの用語を前提に、次のような対比が本章の出発点となる。量(外延量)は計測可能であり、数値化できる。物体の大きさや重さがその典型例である。一方で強度は、数値化も計測もできないが、大小だけは語ることができるとされてきた。感覚や感情がその典型例であり、「今の怒りは30です」とは言えないのに、「さっきより怒っている」とは言えてしまう。ベルクソンは、この強度量という概念そのものを批判していく。
1. はじめに (p. 9)
我々は思考を言語を介して空間の中で考えてしまう。空間の概念を介することが、実はさまざまな哲学的な問題を引き起こしているのではないだろうか。ここでは特に自由の問題を取り上げることにする。これまでの哲学的試みの中には、持続と延長、継起と同時性、質と量との混同という前提が含まれていたことを明らかにしたい。
2. 心理的諸状態の強度について (p. 11)
意識の諸状態は増減を持つと考えられている。数や物体が大きいという場合は、一方の空間を含む空間がより大きい空間と呼ばれ、常識に合致しているのに、理屈としてはうまくつじつまが合わない。より強い感覚がより弱い感覚を内包するのだろうか。はたまたより強い感覚がより弱い感覚を前提としているのだろうか。問題の本質は、感覚には強度量の考え方が前提されているが、感覚の一方が他方よりも大きいという数系列のような系列を形成できるのか、そして減少しているのではなく増大していると認められるのはなぜなのだろうかということだ。これらのことは結局、強度 intensité が大きさ grandeur と同一視されうるのはなぜかに帰着する。
3. 強度量と外延量 (p. 13)
これまでは量を外延的かつ計測可能な量と強度的で計測を容れない(が他の強度との大小を語ることができる)との二つに分けて考えることで問題の回避を図っていた。純粋な強度を一つの延長とみなして、大きさをもつというわれわれの常識によく合致する考えではあるが、非外延的な量を措定するのは矛盾を含む。強度にしても延長にしても、外延・内包のイメージが浮かび上がる。われわれは強度的なものを外延的なものへとすでに翻訳しているのであって、二つの延長の間の関係を漠然とした仕方で直観するから感覚で比較が行えるのである。
原因からの定義の試み
強度を、客観的で計測可能な原因の数や大きさから定義することもできない。たしかにより多くの光源から、より強い感覚が得られたということはできるだろう。しかし、われわれは原因の本性について知りもしないで結果の強度を知る。むしろ逆に、しばしば結果の強度に導かれて、原因の数や本性について仮説を立てることで、気にもしていなかった感覚の判断をし直すことがよくある。そもそもこれらの事象は外的な原因からではなく我々自身から発せられているからだ。
一本の毛を抜くよりも一本の歯が抜かれるときのほうがより強い痛みを体験するのはあまりに明らかだし、町の看板よりも名画のほうが強く心を打つし、鉄の棒を曲げるよりも薄い鉄板を曲げるほうが楽に曲げられることを何も難しい理論を知っている必要はない。このように二つの強度の比較はたいてい原因の数や作用の仕方、延長についてなど全く考慮せずにも行われているのだ。
物理学的還元の試み
物理学のように複雑に見える運動をはっきり規定された運動によって部分へと分解する立場、たとえば、大脳の分子の振動の大きさが感覚の強度になっているという論でも問題は解決できない。われわれは感覚の強度に基づいて仕事量を判断するし、感覚の強度が測定できるにしても、我々の意識に与えられるのは感覚のほうだからだ。それどころか感覚の強度に基づいて仕事量を判断する。少なくとも見かけ上は、感覚の強度は感覚の一特性であるといえる。
4. 数々の深い感情 (p. 18)
強度の困難の核心は、様々な感覚の強度を同じ名で呼び、同じ仕方で表象してしまう点だ。しかし実際には、純粋な強度というものは、心理的な諸状態の大なり小なりの集塊を色づけているある質やニュアンスに還元されるのではないだろうか。あるいは、根本的な情動に浸透している単純な諸状態の数の大小に還元されるのではないだろうか。意識の深みに降りていくにつれて、心理的諸事象を、互いに並置される所持物として扱う権利が失われていく。反省された意識は、残りのすべてが変わらずにとどまったままで、ある欲望が複数の大きさを契機的に経由したと想定することになる。その結果生まれるのは、大きさの変化というよりもむしろ質的な変化である。
希望が強い快楽であるのは、未来は無限の可能性に満ちているからだ。かりに理想的な未来が実現しても、実現しなかった未来という形で犠牲にしなければならず、やはり多くが失われることになる。だからこそひとは、現に所有しているものよりも希望に、現実よりも夢に、魅力を見出す。
喜びや悲しみが強まっていくとき、身体的な兆候が一切生じていない特殊な事例(すなわち完全に内的な喜びなど)において、強度の観点から分析する。内的な喜びの最初の段階では、われわれの意識状態の未来へ向けての方向付けに似た性質を持つ。この未来への方向性をもった力によって、観念や感覚の相互継起は速度を増していく。最後に喜びの極限に達すると、知覚と記憶はある定義しがたい質を獲得する。熱や光にも比すべき、定義しがたい質である。内的な喜びにもいくつかの形態があることが分かったが、その状態を段階的に進んでいくことから、むしろこのそれぞれの形態こそが、同じ一つの感情の複数の強度ではないだろうか。この分析は喜びだけでなく、悲しみの感情でも同様だ。
つまり、「喜びが強まる」とは、同じ喜びの量が増えることではなく、質的に異なる複数の段階を経ることである。ちょっといいことがあってニヤニヤしているだけの状態と、突然すごい幸福が降りかかってワッと喜ぶときとでは、全然質が違う。それなのに「喜び」という同じ名で呼ぶから、あたかも大小比較ができるかのように勘違いしてしまうのだ。
5. 美的な感情 (p. 22)
情動において、実際には質的な変化であるのにもかかわらず、外見的には大きさが変化しているように思える例として、美的な感情を挙げる。美的な感情の中でももっとも単純なもの「優雅 grace」を考察してみる。
優雅の分析
優雅さとは、外的な運動におけるある種の心地よさ、ある種の容易さの知覚である。ここでいう「容易さ」とは、ある種の予見とそれに一致する変化のことである。いわば、時間の歩みを引き留めて現在のうちに未来を保持することの快楽のことである。
優雅な運動があるリズムと音楽に従う場合、リズムと拍子によって運動の予見があまりに明らかなため、かえって我々自身が運動の主であるような気がしてくる。リズムの規則性は運動をするものとのある種の交流関係を打ち立て、拍子の周期的回帰は我々によって操られる人形の一本の見えない糸のようだといえる。それどころかかかる運動のリズムこそが我々の思考と意思のすべてであるのだ。
重要なのは、優雅の感情にはある種の身体的・物理的な共感 sympatie が関与している点だ。我々は優雅のなかに精神的・道徳的共感との類似と暗示を見出し、この共感こそが優雅をもっとも抗しがたい魅力としているのである。スペンサーが主張するように、優雅を努力の節約とひとくくりにしてしまうと、優雅の惹起する快楽が理解できなくなってしまう。きわめて優雅なものであれば、必ず動性の兆しである軽快さと我々に対する可能的な運動(予見されうる運動)への潜在的な共感があり、このいまにも実現されうる運動の状態こそがより高度な優雅の本質なのだ。
こうして、美的な感情の増大する強度も、様々な感情に還元される。この感情は先立つ感情によって既に告知されていたものだが、やがて凌駕してしまう。われわれはより単純な事物を好み、言語は心理学的分析の機微を言い表すには不向きであるがゆえに、この質的な進展をわれわれは大きさの変化としてとらえてしまうのだ。
芸術と自然の美
美の感情が、それ自体が複数の度合いを持つのかさらに分析を進める。美の感情における困難は、自然の美が芸術の美に先行するものだと考えられていることではないだろうか。むしろある意味では、芸術が自然に先行する、あるいは芸術作品における美から漸進していき、自然の美へと論を進めていくことのほうが正しいのではないだろうか。この観点からすれば、芸術の目的は我々の人格の能動性をなだめすかし、従順にさせることで、表現された感情に我々を共感させることにあるということがわかる。
芸術の手法のうちには催眠術に使われるものもある。音楽でいえば、リズムと拍子は極めて大きな力で我々をとらえるため、普段の思考の流れを阻害させ、強制的に注意力を複数の固定点の間を往復させる。自然の音は感情の表現にとどまるが、音楽の音が我々に感情を暗示するため、より強く我々の感情を打つのである。詩の魅力も同じである。詩では感情をイメージへ、イメージからリズムを生み出す言葉へと表現される。言葉によって表現された感情も、リズムがあるからこそ、我を忘れて詩人のイメージに共感するのである。
種々の造形芸術においては、生に固定性を課すことでリズムと同等の効果を得る。この固定性は身体によって伝達されていく。古代の彫刻で軽い情動が表現されていたとしても、石の持つ不動性が感情や運動に対して決定的で永遠なものを与え、われわれの思考はそこで往復し、意志も消失する。建築においても、不動性の中にリズムと似た効果を見出すことができるだろう。対称性や無際限な反復によってわれわれの知覚は反復を強制され、意識を持ってかれてしまう。この状態では観念が提示されるだけで、頭がいっぱいになってしまう。
芸術は様々な感情を表現する(exprimer)ことよりも、感情を我々のうちに刻印する(imprimer)ことを目指すのだ。芸術はそのために自然を模倣することもあるだけだ。一方で、自然はリズムを自在に操ることはない。芸術はわれわれが自然とは長く接していることを利用し、わずかな提示によって共感を生み出すように仕向ける。自然に対する共感が生まれるのは、注意が全体に向けられているときであるが、芸術によって知覚能力は固定され、感性はいまや自分で感動させられるのを待つだけとなるのだ。
美の感情の強度と深さ
これらの分析からわかることは、美の感情ひいては我々が抱く感情ならどれでも因果的に引き起こされたものではなく、暗示されたものであったならばなんでも美的な性格を帯びるということだ。だからこそ、美的な情動には強度と高揚の度合いを複数持つのである。暗示された感情が我々の心を奪う場合もあれば、さして関心を持たない場合もある。
美的感情の進展にはいくつかの区別のできるポイントがある。このポイントは度合いの変動に対応するというよりむしろ状態の差異あるいは本性に対応している。しかし、芸術作品の美しさは感情そのものの豊かさで測られ、暗示された感情がわれわれの心を奪う能力で測られるものではない。言い換えれば強度の度合いに加えて高揚の度合いを直観として区別しているのだ。
感情そのものの豊かさとは、つまり芸術を見るとき、暗示する感情や思考が芸術家の生き様の一部を垣間見ることができるものである。低次の芸術では暗示された感情のほかに何も得られない。しかし大部分の情動は数々の感覚・観念に満たされているため、各々唯一で定義不能である。芸術家がわれわれに暗示する感情がより多くの観念・感情・情動をもっているほど、表現される美よりもより一層の深さや高揚を生むことになる。
ここでの結論は、美の感情の強度は、我々の心の中で起こる感情の変化に対応し、深さの度合いは、判明な形では取り出せないが心の奥底に生まれる情動や心の揺れ動きの数の多寡に対応しているということだ。感動が深いということは、感動の量が大きいということではない。それだけより多くの、いろいろな感情が惹起されているということである。喜びと同時に悲しみが惹起されたり、他にもいろいろな種類の感情が混ざり合って惹起されている状態が深い感動であり、逆に浅い感動とは、単純で一面的な感情しか生じない状態のことなのだ。
道徳的感情
道徳的感情にも同様の分析を行える。例として哀れみを分析しよう。哀れみは、心のなかで他人の立場に身を置いてみてその人の苦しみを味わうことである。苦しみはある種の恐怖を引き起こすから、彼らを避けることになり救いの手を差し伸べるとはならないはずである。しかし、他者の災禍によって思い起こさせられる同情によってか、同類のものを助け、彼らの苦しみを取り除きたいという欲求がある。この欲求は哀れみとしては低次である。真の哀れみは苦しみへの危惧ではなく苦しみへの希求である。意に反して抱いてしまう欲望ではあるが、自然が不正を犯している場で共犯の嫌疑を振り払うようなものだ。哀れみの本質とは、卑下すること(s'humilier)への欲求であり、下降することへの希求である。
小括
こうした分析は心の奥底で起こることであるが、いずれにしても、心理状態が外的な原因と連帯していないこと、筋肉の収縮についての知覚と関係がみられないことは確認できた。これらの状態は全体としてみればまれなものである。感情に身体的な特徴が伴わないものはほとんどないし、兆候が見られるのであればそれが強度の判断において何かしらの役に立つというのはほぼ間違いない。
しかしやはり、意識の中で生まれるいくつかの感情においてはまるで強度が延長へと展開するかのように、むしろ外部へと広がっていくように感じる。具体的には筋肉の努力がそうだ。次のセクションでは筋肉の努力(筋肉を動かす感覚)について深く分析をしていこう。
6. 筋肉の努力 (p. 27)
ここまでの分析は、いわば心の中だけを見たものであった。身体的兆候を一切伴わない特殊な事例に限定して、深い感情や美的感情を扱ってきた。しかし普通、感情や感覚は身体の変化をともなっている。当時の心理学者たちは基本的に、身体の変化の大きさという量的な変化に心理的な強度を置き換えようとしてきた。そこで、身体的な変化ともっとも密接に関わる事例として、筋肉の努力を分析する必要がある。
量の形をもって、あるいはすくなくともある一定の大きさを持ち無媒介的・直接的に意識に対して現れるかにみえる現象の筆頭は筋肉の努力である。心の中にひそめられていて、たまにふんっ!と力を込めるときに意思がこの力を開放・調節するように思える。このなんともお粗末なイメージが、実は我々の強度に関する信念に大きくかかわっている。
筋肉の力は空間のうちで展開し測定可能な現象によって現れるため、先立って存在していたかのような印象を受ける。力をこめる際、集中するのは一部の筋肉であるため、「力」をもつ空間を限りなく圧縮し、もはや空間を占めない(しかしいっぽうで自分としては一定の空間を占める何かであると思っている)純粋な「力」という感覚を持つにいたる。科学の立場からはこの誤った認識を後押しするような実験結果が様々出ているが、われわれとしては筋肉を収縮させるための努力に対する明白な意識は、実際には、筋肉の収縮に関与する身体の面積が増えていくことの知覚に還元されると主張する。つまり、グッと力を込めようと思えば思うほど、力の入る筋肉の数・面積は増えるということだ。
具体例による検証
たとえば、こぶしを「次第に強く」握りしめようとしてみよう。手に力がぐっと入り、力がどんどん増えていくだけだと感じられるかもしれない。しかし実際は最初は手に力が入っていただけだが、徐々に腕・肩・もう一方の腕・全身の筋肉までこわばり、しまいには呼吸さえ求めて食いしばって手に力を込めることになるだろう。手に込めていた力を変えていただけと感じていても、実際には指摘されなければ気づきもしない運動を伴っていたというわけだ。
唇を「次第に強く」つぐんでみるとまた面白い考察が得られる。唇をかむ力に集中していただけだと思っていたはずだが、実際には顔面の様々な筋肉、わずかながらも全身の筋肉をつかって噛んでいたはずだ。これらのことからわかることは、唇をつぐむことに意識を集中していたために、関連した筋肉の面積を唇に局所化し、消費された心理的な力をある一つの大きさとして、延長を有さない力でありながら、感じたということである。
すこしずつ重くなる重りを引っ張り上げてもらう実験を考える。引っ張り上げる人の視点を考えると、仕事をしている感覚は最初から最後までほとんど同じ質のものになるだろう。しかし、重さの感覚はある瞬間から疲労に、そして苦痛へと変わる。引っ張り上げる当人に聞けば腕が疲れて力を込める感覚が腕にだんだんと増えていったと思い込むだろう。というか、指摘しない限り、疲れ果てたのではなくおもりが重くなったのだということを認めないだろう。
これらの分析からわれわれは、筋肉の努力の増大についてわれわれの意識は、末梢神経の数の増加ならびにそれらのあいだで生じる質的な変化についての二重の知覚に還元されると主張する。
小括
ここまでで、心の奥深くで起こる感情の強度のほかに、表層的な努力の感覚も定義ができた。どちらも漠然とした感覚としてとらえられるものだが、質的な進展と複合性の増大がある。こうした分析結果にもかかわらず、意識は空間のうちで試行し、思考を自分自身に対して話す習慣があるため、感情・努力を一点へと局所化してしまう。表層的な努力と心の奥深くの感情のほかに、その間に位置するような感情さえもこうした意識の錯誤が見いだされるだろう。
7. 注意と緊張
現象ではないものの、数々の運動が随伴することから、注意に着目してみよう。もちろん注意は運動の現象でも成果でもないが、先行研究が示すように注意の運動は減少を延長へと表現するものであり、筋肉の感情へと還元するものである。何かを思い出そうとしてみると、額にしわが寄り、口が開き、ある種のしかめっ面になる。いっぽうで、心理的には頭の中の余計な考えを振り払い、考え事に集中していく緊張・努力が増大していくと思い込む。緊張もやはり筋肉の収縮が面積を広げ、緊張が、疲労・苦痛へと変わっていく感情である。
8. 激しい情動
激しい感情の間には、多かれ少なかれある一つの観念、つまり反省された認識観念あるいは反省されざる認識観念が通底している。われわれは激しい感情はこの通底した観念によって秩序付けられた筋肉収縮の系に還元されるだろうと考えている。つまり、激しい情動の強度は、それらに付随する筋肉の緊張のことである。
とはいえ、たとえば、怒りにはある還元不能な心理的要素があると考えられるので、身体的な諸感覚の総和に還元されるとまでは考えない。しかし、観念が情動的な方向付けを行い、それに随伴する運動の方向付けをも行うのであれば、激しい情動の強度の増大とは関与する表面の数と延長で持って意識によってすぐに計測できる振動の深まりのことである。
きわめて冷静を装って、一切の振動を除去しつつ、かつ筋肉への些細なあらゆる意志を除去した状況で、怒りを想定しても、漠然としたものしか残らないだろうし、その怒りに強度を割り当てることなどは無理だとわかるだろう。
強い恐れは、叫びなどの努力によって、動悸とけいれんによって表現されると先行研究によって示されているが、われわれはこれらの運動によってこそ恐れは一つの情動となり、様々な強度を示しうると主張する。また、喜びや悲しみ、欲望や嫌悪、さらには恥にすら、鋭さが存在するが、生命を維持するための運動のうちにその理由を見出すことができるだろう。つまり、もはや我々の外的な運動ではなく、観念・記憶・意識の諸状態が数は増減すれども、総じてある一定の方向付けがなされることによるものだと主張する。強度の観点では鋭さと激しい情動は本質的に同じである。表層的なものであっても、深層のものであっても、激しいものであっても、反省されたものであっても、意識が判明に自覚することはないのだが、数の大小こそがカギになっていることに違いはないのである。