ベルクソンの純粋持続
言語と意識の歪み
ベルクソンは『意識に直接与えられたものについての試論』(1889年)において、われわれが通常「量」として捉えている心理的状態が、実際には「質」的な変化であることを示そうとした。
議論の出発点は、言語と思考に対する根本的な批判である。ベルクソンによれば、言語は「われわれの抱く諸観念のあいだに、物質的諸対象のあいだに見られるのと同じ鮮明ではっきりした区別、同じ不連続性をうち立てることを要請する」(ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』、9頁)。つまり、言語は本来連続的な意識の流れを、空間上の物体のように切り分けてしまう。この操作は日常生活において有用であり、科学の多くの場面で不可欠であるが、哲学的な問題を論じる際にはしばしば深刻な歪みをもたらす。
感情の「強さ」は量ではない
問題は、感情や感覚の「強さ」にも同様の歪みが生じている点にある。たとえば喜びが「増す」とき、われわれは同じ喜びが量的に拡大したと考えがちである。しかしベルクソンによれば、喜びの各段階は「われわれの心理的状態の集塊の質的変容に対応している」(同上、21頁)。喜びの変化は量の増減ではなく、質的に異なる状態への移行なのである。
ベルクソンはこの喜びの変化を次のように描写している。その最も低い段階では、喜びは意識状態の未来への方位づけにすぎない。次に、この牽引力によって意識の重みが軽減されるかのように、観念や感覚の継起の速度が増していく。そして喜びの極限に達すると、知覚と記憶は「熱や光にも比すべきある定義しがたい質」を獲得し、ときにわれわれは自分自身が存在すること自体に驚きを覚えるようになる。これらの段階は「度合いの変動に対応するというよりも、状態の差異あるいは本性の差異に対応している」のだ。
悲しみもまた同様である。最初は過去への方位づけにすぎなかった悲しみが、やがて感覚や観念の貧困化を招き、未来がわれわれにとって閉ざされてしまう。そして最後には、粉砕されたという印象に行き着く。喜びにしても悲しみにしても、それぞれの段階は量的な増減ではなく、意識全体の質的な変容なのである。
拳を握りしめる実験
この質的変化の原理は、より具体的な身体経験にも当てはまる。ベルクソンは「拳を次第に強く握りしめる」という印象的な実験を提示している。
努力の感覚は手の内に局所化されて、その大きさが継起的に増大していくように感じられる。しかし現実には、手はつねに同じものを感じている。変化しているのは、感覚が手から腕へ、腕から肩へと広がっていくことであり、やがて反対の腕もこわばり、呼吸も止まる。まさに全身が関与しているのだ。しかしこの随伴運動に明確に気づくことは、指摘されなければ難しい。われわれは「ただひとつの意識状態と係っていて、それが大きさを変えている」と思い込んでしまう。
同様のことは、ピンを左手に次第に深く刺していく実験でも確かめられる。最初は一種のくすぐったさがあり、次いでちくりとした感じが生じ、やがて一点に局所化された苦痛となり、最後にそれが周辺領域へと拡散する。よく反省すれば、そこにあるのは「いずれも質的に他と区別された感覚」であり、同じ感覚の増大ではない。にもかかわらずわれわれは、刺す右手の漸増的な努力を、刺される左手の感覚のうちに局所化してしまう。こうして無意識のうちに「質を量と解釈し、強度を大きさと解釈する」のである。
精神物理学への批判
ベルクソンのこの洞察は、19世紀に盛んであった精神物理学への根本的な批判でもある。フェヒナーに代表される精神物理学は、外的な刺激と内的な感覚の間に数学的法則を打ち立てようとした。刺激が一定の比率で増加すると、感覚もそれに応じて増大するという考え方である。
しかしベルクソンによれば、この試みには根本的な錯誤がある。感覚の「強度」とは、実は原因である外的刺激の大きさを結果である感覚の質によって読み取る「習得的知覚」にすぎない。われわれは過去の経験から、ある感覚の質がどの程度の刺激に対応するかを学んでおり、その知識を感覚そのものの「量」として解釈してしまうのだ。
たとえば光の感覚についてベルクソンは次のように論じる。四本の蝋燭で照らされた一枚の紙を注意深く眺めながら、蝋燭を一本ずつ消していくとする。紙の表面は白いままだが、その明るさが減少したとわれわれは感じる。しかし先入見を排して注意深く観察すれば、真に知覚されるのは「明るさの減少」ではなく、紙の面を横切る一層の影であり、それはひとつの新たなニュアンスにほかならない。われわれが「同じ白さの明るさが変化した」と感じるのは、過去の経験と科学的知識を素朴な知覚に読み込んでいるからにすぎない。
純粋持続
以上を踏まえて提示されるのが「純粋持続」の概念である。純粋持続とは、空間化や数量化を経ない意識の本来的な時間経験を指す。
通常、われわれは時間を空間的なイメージで理解している。時間を「流れ」と呼び、過去から未来への「線」として表象する。しかしベルクソンにとって、これは時間の本質を捉え損ねた比喩にすぎない。純粋持続において、意識の諸状態は空間上の点のように並置されるのではなく、相互に浸透し合う。過去は消え去るのではなく現在のうちに保持されながら、未来へと連続的に移行する。それは「質的に異質な多様性の連続」であり、空間的な分割によっては決して捉えることができない。
ベルクソンの哲学は、量的思考が支配する近代科学の枠組みの内側から、その前提そのものを問い直す試みであった。感覚を数値化し、心を計測可能な対象として扱おうとする精神物理学の企てに対して、ベルクソンは意識の質的な豊かさを取り戻そうとしたのである。
参考文献
- アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』合田正人・平井靖史訳、ちくま学芸文庫、2002年