道楽としてのブログ

ブログで収益を得ることについて、何度か考えたことがある。

アフィリエイト、広告、スポンサーシップ。ウェブ上で文章を書いて生活する方法は、少なくとも概念としてはいくつもある。「好きなことを書いてお金がもらえるなんて最高じゃないか」と言う人もいるし、その気持ちは理解できる。

けれど、実際にそこに足を踏み入れてみると、そう単純な話ではないことに気づく。

お金を受け取るということ

アフィリエイトには、いい面がある。自分が本当に気に入っている製品やサービスを紹介して、それが誰かの役に立って、その結果としてわずかな報酬が入る。自分の経験を共有することが、そのまま誰かの助けになる。理想的な形で機能しているとき、それは悪い仕組みではない。

ただ、その構造には、静かな引力がある。

報酬が発生するとなると、どうしても「報酬が発生する記事」を書きたくなる。ある商品について正直に「悪くはないが、別にすすめるほどでもない」と思っても、アフィリエイトリンクを貼っている以上、その微妙なニュアンスは書きにくくなる。自分の誠実さと収益のあいだで、小さな摩擦が生まれる。

広告はもう少し単純だ。たとえばGoogle AdSenseのようなサービスなら、書く内容に関係なく、ページに広告が表示される。書き手が特定の商品を推す必要はない。しかしその代わりに、読者が目にする画面の一部を、自分がコントロールできないコンテンツに明け渡すことになる。丁寧に書いた文章のすぐ隣に、脈絡のない広告が並ぶ。それが不快かどうかは人による。ただ、少なくとも自分にとっては、あまり心地よい状態ではなかった。

収益化の手段そのものが悪いとは思わない。ウェブ上で文章を書いて生計を立てている人たちには敬意がある。それは立派な仕事だし、簡単なことでもない。

ただ、お金を受け取るという行為は、形はどうあれ、一種の契約ではないかと思うのだ。

広告主との契約、読者の期待との暗黙の契約、プラットフォームとの契約。お金が介在した瞬間に、「書く」という行為の周囲に、目に見えない約束事が発生する。約束があるところには、責任が生まれる。そして責任が生まれると、書くことの自由度は、少しずつ、しかし確実に狭まっていく。

道楽の特権

「道楽」という言葉がある。生活の糧とは関係なく、好きでやっていること。ニュアンスとしてはどこか呑気で、少しだけ後ろめたさを含んでいる。「あの人はいい道楽をしているね」という言い方には、羨望と軽い揶揄が同居している。

でも、道楽であるということには、ひとつ途方もない特権がある。

無責任でいられることだ。

ここで言う「無責任」は、もちろん何を書いても構わないという意味ではない。誹謗中傷を書いていいとか、嘘を撒き散らしていいとか、そういう話ではまったくない。

そうではなくて、誰の期待にも応えなくていい、ということだ。

収益が発生しないブログには、広告主もスポンサーもいない。だから、誰かの都合に合わせて書く内容を調整する必要がない。PV数を気にして煽情的な見出しをつける必要もない。更新頻度を維持するために無理に何かを搾り出す必要もない。

書きたいことを、書きたいときに、書きたいように書く。それだけのことが、お金が絡んだ途端に難しくなる。道楽のブログは、その「それだけのこと」をそのまま手にしている。

自由に書くということ

思ったことを率直に、素朴に、できるだけ誠実に、それでいて軽やかに書く。

すごいことを書いて世の中を変えたいわけではない。正しいことを言って誰かを導きたいわけでもない。ただ、そのとき考えていること、感じていることを、自分の場所で、自分の言葉で書き留めておきたい。それ以上でも、それ以下でもない。

責任を持って厳密な主張を展開したいなら、もっとふさわしい場所があるだろう。学術論文を書けばいいし、ジャーナリズムに身を投じてもいい。そこには「責任を負うこと」に見合うだけの仕組みと報酬が、不十分ながらも用意されている。

個人のブログは、そうした場所とは違う。少なくとも、そうした場所と同じである必要はない。

ブログには文字数の制約もなければ、締め切りもない。誰に査読されるわけでもない。書きかけで公開しても、あとから書き直しても、誰にも叱られない。この自由は、道楽であるからこそ成り立っている。そして、この自由の中でこそ書ける文章というものが、たぶんある。

小さくいられるだろうか

とはいえ、ひとつ気になることがある。

小さなブログは、いつまで小さくいられるのだろうか。

書いた文章が予想外に多くの人の目に触れることは、インターネットではいつでも起こりうる。何千人、何万人に読まれるようになったとき、「これは道楽だから」という態度を維持できるかどうか。読者が増えるということは、望むと望まざるとにかかわらず、ある種の「責任」が発生する状況を意味しないか。

この問いに対する明快な答えは、正直なところ持ち合わせていない。

ただ、ひとつ思うのは、「小さくいること」は読者の数で決まるものではないのかもしれない、ということだ。

読者が千人いようと一万人いようと、書き手が収益を求めず、誰の期待にも応えようとせず、自分のペースで自分の言葉を紡いでいるなら、それは依然として「道楽」と呼べるのではないか。逆に、読者が十人しかいなくても、PVを気にし、SEOを意識し、更新頻度にプレッシャーを感じているなら、それはもう道楽ではなくなっているのかもしれない。

小さくいることは、規模の問題ではなく、態度の問題なのだと思う。

だから

だから、と言ってしまっていいのかわからないけれど。

自分のブログは、道楽でありたい。思ったことを書いて、それを誰かが読んでくれたらうれしいし、読まれなくてもべつに構わない。広告も貼らないし、お金ももらわない。その代わりに、誰にも何も負わない場所として、この場所を持っていたい。

それはたぶん、すごく贅沢なことだ。お金にならない文章を書き続ける余裕があるということ自体が、ひとつの特権かもしれない。その自覚はある。

でも、だからこそ、この特権をちゃんと使いたい。お金をもらっていたら書けないことを書く。誰にも査読されない場所で、まだ形になっていない考えを、おそるおそる言葉にしてみる。間違っているかもしれないし、来月には考えが変わっているかもしれない。それでも、今この瞬間に自分が思っていることを、率直に、のびのびと、書く。

それが、道楽としてのブログの、ささやかな自由だと思っている。

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Capture Oneに待望のネガフィルム変換機能が来た

2026年4月3日、Capture One 16.7.4 がリリースされた。目玉はなんといっても Negative Film Conversion(ネガフィルム変換) の搭載だ。これまで Cultural Heritage エディション限定だったネガ反転処理が、ついに通常の Capture One Pro / Studio でも使えるようになった。 何が変わったのか 従来、Capture One でネガフィルムをポジに変換するには、Cultural Heritage(CH)エディションを使う必要があった。CH は文化財デジタル化向けの専用製品で、Base Characteristics ツールに Film Negative / Film Positive モードが用意されていた。しかし一般の写真愛好家がフィルムスキャンのためだけに CH を導入するのは現実的ではなく、多くのユーザーは Lightroom とそのプラグイン(Negative Lab

By Sakashita Yasunobu

雨の中、歩くべきか走るべきか

傘を忘れた日の永遠の問い、歩くか、走るか、いやいっそ雨宿りをするのか。物理で決着をつける。 モデル 人体を直方体で近似。上面積 $A_{\text{top}}$(頭・肩)、前面積 $A_{\text{front}}$(胸・顔)。雨は鉛直一様(落下速度 $v_r$、数密度 $n$)、距離 $d$ を速度 $v$ で直線移動する。 人体の直方体モデルは、上から見た水平断面が $A_{\text{top}}$、正面から見た鉛直断面が $A_{\text{front}}$ の二面で構成される。移動方向は水平、雨は鉛直に降る。 受ける雨滴数は、上面が $n v_r A_{\text{top}

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T-GRAIN・Core-Shell・旧式乳剤の定量比較

Kodak T-GRAIN、Ilford Core-Shell、旧式立方晶乳剤。写真フィルムの性能を左右する三つの乳剤技術を、特許文献と数式に基づいて比較する。 1. 出発点: 旧式乳剤の構造と限界 T-MAXやDeltaが何を改良したのかを理解するには、まず従来の乳剤がどのようなものだったかを押さえておく必要がある。 1980年代以前、標準的なハロゲン化銀乳剤はAgBrやAgBr(I)の結晶が立方体(cubic)か不定形(irregular)の形をしていた。Tri-XやHP5の祖先にあたるこれらの乳剤では、結晶のアスペクト比(直径対厚さの比)はおおむね1:1から2:1。三次元的にほぼ等方的な粒子が乳剤層にランダムに散らばっていた。 この形態が感度と粒状性のトレードオフに直結する。立方晶粒子を一辺 $a$ の立方体として近似すると、表面積と体積、そしてその比は次のとおりである。 $$ S_{\text{cubic}} = 6a^2, \quad V_{\text{cubic}} = a^3, \quad \frac{S}{V} = \frac{6}

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クジラはなぜがんにならないのか

体が大きい動物ほど細胞の数が多い。細胞が多ければ、そのうちどれかががん化する確率も高くなるはずだ。ところが現実には、クジラやゾウのがん発生率はヒトよりも低い。1977年、疫学者リチャード・ピートがこの矛盾を指摘した。以来この問いは「ピートのパラドックス」と呼ばれ、比較腫瘍学における最大の謎のひとつであり続けている。 種の中では予測通り、種の間では崩れる 同じ種の中では、直感どおりの傾向が確認されている。身長の高いヒトはそうでないヒトよりがんの発生率がやや高く、年齢を重ねるほどがんは増える。細胞の数が多いほど、細胞分裂の回数が多いほど、がん化の確率は上がる。 しかし種を超えて比較すると、この関係が崩壊する。シロナガスクジラの細胞数はヒトの約1000倍にのぼるが、がんの発生率がヒトの1000倍になるわけではない。哺乳類全体を見渡しても、体サイズとがんリスクの間に明確な正の相関は長い間見つかっていなかった。がんの発生率は種が異なっても約2倍の範囲にしか収まらないとされてきた。体サイズの差は100万倍を超えるにもかかわらず。 ゾウが持つ余分ながん抑制遺伝子 最もよく知られた説明は

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