好きで始めた写真が息苦しさに変わるとき

写真が好きで始めたはずなのに、いつの間にか疲れている。撮ること自体は楽しい。だがSNSに投稿した後の反応を気にし始めると、楽しさの質が変わる。撮影会に行って他の人の機材を見ると、自分のカメラが急に貧相に見える。ベテランの人に「その設定だと」と言われると、楽しかった時間が一気に萎む。

カメラ界隈がしんどいのは、撮影技術の問題ではない。人間関係とインセンティブの構造の問題だ。

経験年数が正しさになる権威勾配

カメラ界隈には、「長くやっている人の意見が正しい」という暗黙の序列がある。これはあらゆる趣味コミュニティに共通する構造だが、カメラ界隈では特に強い。写真には明確な正解がないため、正しさの根拠が「経験年数」に依存しやすいのだ。

技術的な正解はある程度存在するが、「いい写真とは何か」に正解はない。正解がない領域では、経験年数が権威の代替指標として機能する。

結果として起きるのは、「長くやっている人が新しい人に教える」という一方的な関係の固定化だ。教えてもらう側は意見を言いにくくなり、教える側は自分の基準が正しいと確信を深める。フィードバックのループが閉じて、多様な視点が排除される。

これが老害と呼ばれるものの正体だ。個人の性格の問題ではなく、経験年数を権威に変換する構造が生み出している現象だ。

作品ではなく機材で序列化する

カメラ界隈のもうひとつの構造的問題は、作品ではなく機材で人を序列化する傾向だ。

「何を使って撮っているか」が、しばしば「どんな写真を撮っているか」よりも先に問われる。フルサイズか、APS-Cか。純正レンズか、サードパーティか。最新機種か、型落ちか。これらの情報が、撮影者の「本気度」や「レベル」の指標として使われる。

なぜ機材が序列の基準になるのか。理由は単純で、機材は可視的で比較可能だからだ。写真の質は主観的で比較しにくいが、機材のスペックは客観的に比較できる。価格も明確だ。「50万円のカメラを使っている」という情報は、「感動的な写真を撮っている」という情報よりもはるかに伝達しやすい。

これは本質的にはグッドハートの法則の一例だ。「いい写真を撮る」という本来の目的が、「いい機材を持つ」という計測可能な指標にすり替わる。指標が目的化し、本来の目的が手段に転落する。

投資額が本気度になる誤った等式

機材の序列化と密接に関連するのが、「高い機材を買った=本気で取り組んでいる」という等式だ。

50万円のカメラを買った人は、5万円のカメラを使っている人よりも「本気」だと見なされる。だがこの等式は成り立たない。投資額と技術、投資額と作品の質、投資額と情熱の間には、相関があるとしても因果関係はない。

この等式が維持されるのは、高額の機材を買った側にインセンティブがあるからだ。50万円を投じた自分を正当化するために、「高い機材を使っている=本気」という物語を信じる必要がある。認知的不協和の解消だ。「50万円は無駄遣いだったかもしれない」という不安を、「本気だから投資したのだ」という物語で上書きする。

そして、この物語を維持するためには、安い機材で素晴らしい写真を撮る人の存在が都合が悪い。だから「その機材では限界がある」「やはりフルサイズでないと」という言説が再生産される。

承認欲求の転倒

カメラ界隈のしんどさの根底には、承認欲求の転倒がある。

写真を始めたとき、多くの人は「いい写真を撮りたい」と思っている。だがSNSに写真を投稿するようになると、目的が少しずつ変わる。「いい写真を撮りたい」が「いいねをもらいたい」に変わる。「撮りたい写真」が「伸びる写真」に変わる。

この転倒は徐々に進行するため、本人が気づきにくい。「いいねが多い=いい写真」という基準を一度内面化してしまうと、いいねが少ない自分の写真を肯定できなくなる。好きで撮った写真が、いいねが少ないという理由で無価値に感じられる。

好きで始めた趣味が苦痛に変わる瞬間は、ここだ。自分の評価軸を他人の評価軸に明け渡したとき、趣味は義務になる。

逃げ道の設計

この構造の中でどうするか。

第一の選択肢は、界隈から距離を取ることだ。SNSのカメラアカウントのフォローを減らす。撮影会に行く頻度を下げる。写真を見せる相手を選ぶ。界隈との接触面積を減らすだけで、しんどさは大幅に軽減される。

第二の選択肢は、自分の評価軸を明確にすることだ。自分にとっての「いい写真」が何かを、他人の基準とは独立に定義する。機材のスペックでもなく、いいねの数でもなく、自分が撮りたかったものが撮れたかどうか。この基準を持っていると、他人の評価に揺さぶられにくくなる。

第三の選択肢は、写真を趣味として再定義することだ。趣味は義務ではない。上達しなくてもいい。誰かに認められなくてもいい。ただ撮ることが楽しければ、それで十分だ。

カメラに限らない構造

ここまで書いたことは、カメラ界隈に固有の問題ではない。

オーディオ界隈にも機材信仰がある。自転車界隈にもフレームの値段で序列化する構造がある。登山界隈にも「あの山に登った」という経験値による序列がある。どの趣味コミュニティでも、本来の楽しみとは別の軸で人を序列化する構造が生まれうる。

好きで始めた趣味がしんどくなったとき、自分の性格や精神力のせいにする必要はない。構造がしんどさを生んでいる。そしてその構造は、距離の取り方を設計することで、ある程度まで対処できる。

あなたが写真を撮りたいと思った最初の衝動を、他人の評価軸で汚染させる必要はない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu