現像ソフトを選び直す

写真を撮り始めた学生がまず手にする現像ソフトは、たいていAdobe Lightroomだ。学割があるし、チュートリアルも多い。周りも使っている。それを否定するつもりはない。

ただ、選択肢がひとつしかないと思っているなら、少し立ち止まってほしい。

Lightroomという「当たり前」

Lightroomが学生の定番になっている理由は明快だ。Adobeは教育機関向けの割引を積極的に展開しており、Creative Cloud全体をまとめて契約する流れの中にLightroomが自然と含まれる。PhotoshopやIllustratorを使う必要があるなら、同じサブスクリプションにLightroomがついてくるのだから、わざわざ別のソフトを探す動機がない。

さらに、ネット上の学習リソースの量ではLightroomが圧倒的だ。プリセットの配布、YouTubeの現像チュートリアル、書籍。入口として近づきやすいのは事実だ。

しかし「入口として近づきやすい」ことと「最も良い選択である」ことは、まったく別の話だ。

Capture Oneという別解

Capture Oneは、デンマークのPhase One社が開発するRAW現像ソフトだ。中判デジタルカメラのメーカーが自社のカメラのために開発した現像エンジンが出発点であり、商業写真やファッション撮影の現場で長く使われてきた。

Capture Oneの特徴を一言でまとめるなら、「色」だ。

同じRAWファイルをLightroomとCapture Oneで開いてみると、最初に気づくのは色の出方の違いだ。Lightroomの色は整っている。整いすぎていると感じる人もいる。Capture Oneの色は、生っぽさを残しながら、深みがある。肌の色、空の青、木々の緑。現像前のプレビューの段階から、色の印象が異なる。

これは好みの問題であり、どちらが「正しい」ということではない。しかし、Lightroomの色しか知らずに「自分は色の扱いが下手だ」と思い込んでいる人がいるなら、一度Capture Oneで同じRAWファイルを開いてみてほしい。問題はあなたの腕ではなく、道具の選択かもしれない。

設計思想の違い

LightroomはAdobeのエコシステムの一部だ。Photoshopとの連携、Adobe Cloudによるデバイス間同期、モバイルアプリとの統合。写真だけでなく、映像やデザインも含めた総合的なワークフローの中に位置づけられている。サブスクリプション前提のビジネスモデルも、この統合路線と一体だ。

Capture Oneは現像に特化している。写真を受け取り、色を調整し、出力する。その一連の工程を、可能なかぎり精密にやる。テザー撮影(カメラとPCを接続してリアルタイムで確認しながら撮影する手法)の安定性が高く評価されているのも、スタジオでの実用を軸に開発されてきた歴史の反映だ。

どちらの設計思想が優れているかではない。自分のワークフローにどちらが合うかだ。写真撮影と現像だけに集中したいなら、Capture Oneの設計思想のほうがしっくりくるかもしれない。

試すハードルは低い

Capture Oneには無料体験版がある。期間限定ではあるが、すべての機能が使える。インストールして、手持ちのRAWファイルをいくつか開いてみるだけでいい。

また、Capture Oneにも教育機関向けの割引が用意されている。学生であれば、通常価格より安く利用できる。Adobeの学割と比較検討してみる価値はある。

ただし、正直に書いておくべきことがある。LightroomからCapture Oneへの移行には手間がかかる。カタログの完全な互換性はなく、現像設定の引き継ぎもできない。過去の写真をすべて移行しようとすると、相当な時間を覚悟する必要がある。「試しに触ってみる」と「完全に乗り換える」のあいだには、大きな距離がある。

道具を疑う習慣

レンズは一本でいいで書いたように、写真の道具選びは「何を選ぶか」以上に「なぜそれを選んだのか」が重要だ。Lightroomを使っている理由が「みんな使っているから」なら、その選択は自分のものではない。

同じRAWファイルを別のソフトで開くだけで、写真の見え方が変わることがある。物撮りは遠くからで書いたパースペクティブの話と同じだ。距離を変えるだけで被写体の見え方が変わるように、現像ソフトを変えるだけで色の見え方が変わる。

道具に正解はない。ただ、試さずに「これしかない」と決めてしまうのは、もったいない。

まとめ

Lightroomは優れた現像ソフトだ。それは変わらない。しかしCapture Oneという選択肢が存在すること、そしてそれが色の扱いにおいて独自の強みを持っていることは、知っておいて損はない。

必要なのは、高い機材でも高度な知識でもない。手持ちのRAWファイルを、もうひとつのソフトで開いてみること。それだけだ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

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