大学の専攻というかゼミの選び方

大学3年になると、多くの学生がゼミを選ぶことになる。あるいは研究室を選ぶ、指導教員を選ぶ、専攻を決める。呼び方は大学によって違うが、やることは同じだ。卒業論文で何を書くかを、このあたりで決める。

この選択を「将来の就職に有利かどうか」で決める人がいる。「友達がいるから」で決める人もいる。「楽そうだから」で決める人もいる。どれも間違いではない。ただ、もうひとつ、もっと素朴で確かな基準がある。

その分野のスタンダードな読み物を、読めるかどうか。

読めるかどうかで判断する

どの学術分野にも、入門者がまず参照すべき定番のリソースがある。教科書、百科事典、論文データベース、学術雑誌。それらは、その分野の知見を体系的にまとめた一次的な参照先だ。

たとえば哲学なら、以下のようなものがある。

  • Stanford Encyclopedia of Philosophyplato.stanford.edu)。スタンフォード大学が運営する査読付きの哲学百科事典。各項目はその分野の専門家が執筆し、定期的に更新される。無料で全文が公開されており、学部生から研究者まで幅広く参照されている。
  • Internet Encyclopedia of Philosophyiep.utm.edu)。1995年に設立された査読付きの哲学百科事典。SEPと比べてやや平易な記述が多く、学部生レベルでも十分に利用できる。アメリカ図書館協会が推薦する無料レファレンスのひとつ。
  • PhilPapersphilpapers.org)。哲学論文の包括的なインデックスおよび書誌データベース。300万件以上のエントリが6,000以上のカテゴリに分類されている。哲学の研究動向を把握するうえで欠かせないツール。

これらを開いて、興味のあるトピックの記事をひとつ読んでみる。最後まで読めたか。読みながら「なるほど」と思えたか。もっと知りたいと感じたか。途中で飽きたか。苦痛だったか。

もし読み通せたなら、その分野にはある程度の適性がある。少なくとも、標準的な文献に対する最低限の忍耐力と興味が備わっている。読めなかったなら、その分野で卒論を書く1年ないし2年は相当に長い。

どの分野にもある

これは哲学に限った話ではない。学術分野にはそれぞれ、入門者がアクセスできる標準的なリソースが存在する。

物理学や数学、計算機科学ならarXiv(arxiv.org)にプレプリントが集まっている。生物医学系ならPubMed(pubmed.ncbi.nlm.nih.gov)が研究論文の一大データベースだ。経済学ならNBER Working Papers(nber.org)で最新の研究動向が追える。情報学ならACM Digital Library(dl.acm.org)やIEEE Xplore(ieeexplore.ieee.org)がある。法学には判例データベースがあり、歴史学にはデジタルアーカイブがある。

自分が志望する分野のそれが何なのか、わからなければ教員に聞けばいい。「この分野に興味があるのですが、まず何を読めばいいですか」と聞く。まともな教員であれば、入門書やレビュー論文を教えてくれる。むしろ、それを聞くこと自体がゼミ選びの第一歩だ。

ゼミ選びは先生選びでもある

研究テーマへの興味がどれだけあっても、指導スタイルが合わなければ2年間は苦しくなる。逆に、指導教員との相性が良ければ、最初はそこまで関心がなかったテーマにも次第に引き込まれることがある。

指導スタイルは教員によって大きく異なる。毎週の進捗報告を求める人もいれば、基本的に放任で学生の自主性に委ねる人もいる。テーマを細かく指定する人もいれば、学生が自分で見つけてくることを期待する人もいる。どちらが良い悪いではなく、自分に合うかどうかの問題だ。

この情報は、シラバスには書いていない。知るには直接確かめるしかない。オフィスアワーを訪ねる。ゼミの見学ができるなら見学する。その先生のもとで卒論を書いた先輩がいれば話を聞く。先輩の卒論テーマの一覧を眺めるだけでも、そのゼミで何ができるかが具体的に見えてくる。

消去法でもいい

「やりたいことが見つからない」という悩みは珍しくない。むしろ、大学3年の時点で研究テーマが明確に定まっている学生のほうが少数派だろう。

見つからないなら、消去法で選ぶのも悪くない。「絶対にやりたくないこと」を先に除外していく。興味のない分野を消していけば、残ったものが候補になる。残ったものが複数あるなら、それぞれの標準的な読み物を読み比べてみればいい。読み比べた結果「どちらも面白い」なら、どちらを選んでも大きく外れない。

試す手段もある。聴講を使えば、正規の履修登録をせずに授業に出席できる。GPAに影響しないから、合わなければ静かに離れればいい。候補となる分野の講義を数回聴くだけでも、判断材料は増える。

数字に収まらない2年間

ゼミを「就職に有利かどうか」で選ぶ発想は理解できる。しかし、ゼミで過ごす時間の価値は、数字には収まりきらない

ゼミの2年間は、ひとつのテーマについて深く考え、文献を読み、議論し、書くという訓練の場だ。この経験が卒業後にどう効いてくるかは、GPAや偏差値のような指標では予測できない。しかし、ひとつの問いに長期間向き合った経験は、どんな仕事においても地味に効く。

だからこそ、「読めるかどうか」という素朴な基準に戻る。興味を持って読み続けられる分野であれば、少なくとも2年間を退屈せずに過ごせる。退屈しなければ考える時間が生まれる。考える時間があれば、何かが残る。

まとめ

ゼミや専攻を選ぶとき、もっとも確かな判断基準は、その分野のスタンダードな文献を自分の意志で読み通せるかどうかだ。

読めるなら、そこにはある程度の適性がある。読めないなら、別の分野を探したほうがいい。それだけのことだ。

迷ったら教員に聞く。先輩の卒論を見る。聴講で試す。オフィスアワーを訪ねる。地味だが、これ以上に確かな方法はない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu