大学生の「暇」は退屈か、意味の不在か
「暇だ」と言いながら、スマートフォンの画面をスクロールし続ける。やるべき課題は積まれているのに、なぜか「暇」と感じる。この矛盾は、「暇」という言葉が指しているものが、実は時間の空白ではないことを示している。
「暇」は時間の問題ではない
「暇」と感じるとき、多くの場合、物理的に何もしていないわけではない。SNSを眺め、動画を流し見し、メッセージに返信している。時間は消費されている。にもかかわらず「暇」なのは、そこに「意味のある予定」が存在しないからだ。
「暇」の正体は、時間の余りではなく、時間に対する意味づけの不在にある。予定があること、つまり「やるべきこと」「行くべき場所」「会うべき人」が時間を構造化する。その構造がないとき、時間はただ流れるものになり、それを「暇」と呼ぶ。
退屈の心理学
心理学者ジョン・イーストウッドらの研究は、退屈(boredom)を「注意を向けたい対象が見つからず、その状態を不快に感じること」と定義した。注目すべきは、退屈は「何もない」状態ではなく、「何かをしたいのにできていない」という葛藤だということだ。
大学生の「暇」には、この退屈の構造が当てはまる。何かをしたい気持ちはある。しかし何をすればいいかが分からない。あるいは、やるべきことは分かっているが、それに取り組むだけのエネルギーを感じない。この状態は、空きコマが無に溶ける現象と同じ構造を持っている。自由な時間が与えられたとき、人はしばしばその自由を持て余す。
「充実」のプレッシャー
SNS上には「充実した日常」があふれている。旅行、カフェ、友人との集まり。それを見た側は、自分の時間と比較する。自分は何もしていない、つまり「暇」だ、という結論に至る。
しかしこれは、比較によってしか幸福を測れないという人間の認知構造の表れだ。他者の時間の使い方が可視化されたことで、「何もしていない時間」が以前よりも強く意識されるようになった。「暇」は客観的な状態ではなく、比較によって生まれる主観的な評価になっている。
やることがあるのに「暇」な矛盾
レポートの締切はある。読むべき文献もある。しかし「暇」と感じる。この矛盾は、義務としての「やるべきこと」と、動機としての「やりたいこと」のあいだのズレから生まれている。
やるべきことに取りかかれないのは、努力の構造的な問題として理解できる。報酬が遠く、コストが今ここにある。その非対称が行動を阻み、結果として「やることはあるが動けない」という状態になる。そしてその状態を、語彙の不足から「暇」と呼んでしまう。
ぼんやりする時間の価値
一方で、何もしていない時間には独自の価値がある。脳科学の研究は、安静時に活性化するデフォルトモードネットワーク(DMN)が、記憶の整理、将来の計画、創造的な思考に関与していることを示している。ぼんやりしている時間は、脳が「何もしていない」わけではない。
パスカルは「人間の不幸は、部屋に一人でじっとしていられないことから生じる」と書いた。この箴言が刺すのは、「暇」を恐れて常に何かで時間を埋めようとする姿勢そのものだ。暇を「潰す」という表現が示すとおり、私たちは空白の時間をどこか敵視している。しかし、その空白にこそ思考が育つ余地がある。
「暇」の再定義
「暇」は悪い状態ではない。ただ、「暇」という一語があまりにも多くの状態を覆い隠してしまっている。退屈、倦怠、無気力、選択の麻痺、比較による焦り。これらはそれぞれ異なる原因を持ち、異なる対処を必要とする。
自分が「暇だ」と感じたとき、一歩立ち止まって「これは本当に暇なのか」と問い直してみることには意味がある。時間がないのか、意味がないのか、動機がないのか。それを区別できるだけで、「暇」という漠然とした不快感の輪郭がはっきりしてくる。
まとめ
大学生が「暇」と言うとき、それは物理的な空き時間の報告ではない。意味のある予定がないこと、行動の動機が見つからないこと、他者との比較で自分の時間が空虚に見えることの総体だ。「暇」は時間の問題ではなく、時間に対する意味づけの問題である。だからこそ、暇を解消するために予定を詰め込むのではなく、「何もしない時間」の居心地の悪さそのものを観察してみることに価値がある。