コロナ禍と大学

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

新型コロナウイルス感染症の流行によって社会は大きな変化を迫られた。世界経済の停滞や、運送量の大幅増加に伴う混乱など、直面した問題は多い。多くの大学が教育を継続するための暫定的な策としてICT機器を用いたオンラインによる授業を展開した。総務省資料(p.19)[2]によると教育のオンライン化に伴い各学生はPCとインターネット環境を整えなくてはならないため、それが家庭における財政的負担になっている。その結果、家庭の世帯年収によって学習機会の格差が生じていると指摘されている。急速な教育現場での諸問題の発生はやむを得ないことではあるが、学習格差の問題については大学というよりかはむしろ国が対策すべき問題ではないかと思われる。

ところで、近年は世界のグローバル化が進んでいたが、学校のグローバル化の進捗は今ひとつであった。しかし、新型コロナウイルス感染症の流行に伴う授業のオンライン化によって大学と学生の両方でデジタル化が急進し、グローバル化する社会へ一歩前進したとも言えよう。そういった面では環境の変化が改革を促したと考えられる。

受験広報における大学政策の対応

社会的な面から着目してみると、大学における社会の立ち位置も変化したと考えられる。とくに社会へ大学の関心として集まる事業として受験がある。そこで受験における広報としての大学政策の対応についてより深く掘り下げることとした。岩崎[1]は大学における広報担当部署の業務には具体的に「ホームページの運営・管理、報道(取材)対応、組織内(学内)広報、ブランド戦略、入試広報」とし、「入試志願者数が財政に直結する私立大学は広報活動のなかでもより入試広報を、国立大学はブランド戦略に取り組む傾向がみられる」と論じている。かつてはこのような広報活動は実際に大学へ足を運んだ者への資料配付やマスメディアを用いた広報などであったと考えられるが、新型コロナウイルス感染症の流行によりこうした業務の活動場所が従来の方法とインターネットの併用または移行へと変化した。実際に筆者が高等学校へ入学した当初、先輩方は実地へ足を運び大学ごとの気風を肌で感じていたが、筆者が受験生となるころにはオープンキャンパスといえばオンラインでの開催が多かった。

ICT導入に伴う課題

短期的に起こった受験・教育現場でのICT導入で考えられる問題としてセキュリティの問題、メディアリテラシー、情報機器の設備投資などが挙げられる。しかしながら、日本のICTの現状は未だ過渡期である。国もその問題について認知しており、総務省資料(p.27)[2]によると教育にとどまらないが、テレワークなどを含めた全体を通してトラフィック量の増加がみられ、その対応に追われているという。他方では、ユーザーの能力がついてきていないという現状がある。実際にオンライン授業でもしばしばファイルが開けない、授業に参加できないといった問題が発生していた。これについてはプラットフォームの差異やシステム上の問題、またはユーザーインターフェースの不完全さが原因であると考えられる。特にこの問題はノートとペンさえあれば学ぶことのできる従来の方法では生じなかったと言えよう。

当時の大学で用いていたオンライン授業のツールにはMoodle、Zoom、Teamsなどがあったが、これらはとくに国から指定を受けているツールというわけではない。そのため例えば特定の企業が突然サービスのサポートを打ち切った際に代替の手段に困り果ててしまうことが考えられる。このような事態を避けるためにも、オンライン授業に関する標準化やマニュアル化が求められると考える。一方、大学側としてはツールを扱う側としての能力を高めていかなければならない。慣れない環境への突然の移行ではあるが、そういった環境の変化にも変わらず研究や教育を提供し続けることが将来的には社会的な貢献になるのではなかろうか。

結論

新型コロナウイルス感染症の流行で社会はさまざまな場所で改革を迫られた。大学も例外ではなく、授業形態の変化、広報の多様化が挙げられる。しかしそういった変化は勉強における「手段・方法」の変化でしかない。今後社会情勢が落ち着いた後に、現在行われている方法を再検討していくことが最も大切なのではないかと考える。例えばオンラインによる授業の良い点・悪い点を考えていき、どの授業形態がどのような特徴を持っているかなどを調べることのできる絶好の機会であるという認識を持つことが、今後の教育、研究、さらには社会的貢献の質の向上につながると考えられる。

参照文献

  • [1] 岩崎保道『大学の戦略的経営手法』大学教育出版、2016年、pp. 64-65.
  • [2] 総務省「新型コロナウイルス感染症が社会にもたらす影響」2020年10月27日(PDF、2022年4月26日閲覧)

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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