社会との関係性から見た大学組織の役割

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

筆者は講義を受け、大学の役割は企業が社会に対して果たしている役割と似ていると感じた。よって、本稿では企業と社会との関係性に着目し、大学がミッションを果たすことによる社会での役割について論じる。

大学と企業の類似性

企業の社会における立ち位置については、P. F. ドラッカー[Drucker 2008]によると「企業は社会的組織である」ととらえている。一方で大学は学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第九章第八十三条第二号により「大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するもの」とされている。つまり、営利目的であるかどうかの違いはあれど、どちらも最終的には社会への寄与が求められており、このような視点からは似た存在であるといえるであろう。

ではもう少し個別具体的に見ていくとしよう。例えば、企業は各々がサービスの研究を行い、個性を発揮し、ブランド化を行う。これは大学においても同様の動きが見られるという点でも類似していると考えた。また、経営資源としてヒト・モノ・カネ(・情報)をあげているのも企業の経営と同様である。一方で確かにドラッカー[Drucker 2008]のいうように「企業の目的は経済活動である」。すなわち、同法律第六条に「公の性質を持つもの」と記されている学校とは大きく性質を異にしている。では目的が違うにもかかわらず一体なぜ前述の類似点が見られるのであろうか。

公共経営という視点

学習を進めていく中で「公共経営」という考え方を知った。公共経営の定義は片岡ら[片岡寛光 2006]によると

公共部門、民間部門およびシビック部門それぞれに、あるいは互いに協調・協力、提携・連合して人々が分かち持つ共通のニーズを充足し、公共的諸問題の解決に当たる集合的営為

である。つまり学校が企業としての自覚をもって社会における役割を演じているのではなく、公共経営という手法をとっているのだと考えた。すなわち、大学がミッションを達成する上で効率化などの観点から、企業の経営方針を参考にしているのではないかと考えた。また、初回の授業で触れた大学数と受験者数の間に需要と供給の関係性があることからも、大学と社会との関係性へ企業に用いられる考え方を適用することが可能である、またはすでにされているのではないかと考えた。

まとめ

今回のレポート作成を進める上では公共経営という概念に初めて出会った。大学はミッションを果たすために社会における企業のような役割・振る舞いを見せるが、その根底にあるのは営利追求ではなく、公共的課題の解決という目的である。公共経営の概念は、この一見矛盾するように見える大学の行動を理解するための一つの鍵となりうる。大学が企業的手法を取り入れつつも、その公共的使命を見失わないためにはどうすべきか。この問いは、今後の大学経営を考える上で重要なテーマであると考える。

参照文献

  • P. F. Drucker『企業とは何か』上田惇生 訳、第11巻、ダイヤモンド社、2008年.
  • 片岡寛光「公共経営の時代の公共性とは」『組織・経営から考える公共性』(公共哲学18巻)第1章、山脇直司・金泰昌 編、東京大学出版会、2006年.

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