デカルトにおける表象的実在性と形相的実在性

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

デカルトは『省察』第三省察において、「表象的実在性」(realitas objectiva)と「形相的実在性」(realitas formalis)という区別を導入する。この概念装置は、観念の分析から神の存在証明へと至る議論の鍵となるものである。

第三省察の文脈

デカルトは第一省察で方法的懐疑を遂行し、第二省察で「私は考える、ゆえに私は存在する」(コギト)を確立した。しかし、この段階ではデカルトは独我論の立場にとどまっている。確実なのは自分の存在と思惟作用だけであり、外的世界の存在はいまだ保証されていない。

デカルトが次に取り組むのは、「欺く神」の想定によって数学的真理までも疑わしくなった事態において、「神は存在するかどうか」、「存在するとするならば欺瞞者ではないかどうか」を検討することである(小林道夫『哲学の歴史 第5巻』、217頁)。この検討のためにデカルトが展開するのが「結果からの(ア・ポステリオリな)証明」と呼ばれる神の存在証明であり、その核心に表象的実在性と形相的実在性の区別がある。

観念の分類と吟味

デカルトはまず、自分がもつ諸観念をその由来に従って「生得観念」(生まれつき備わっている観念)、「外来観念」(感覚を通じて外部から来たように思われる観念)、「作為観念」(自分で作り上げた観念)の三種に分類する。

しかし、この段階では外来観念であっても、それが本当に外的存在に由来するとは断定できない。感覚の観念は「私の意に反して」やって来るように感じられるが、それは「私」の内にあるなんらかの未知の能力に起因するのかもしれない。仮に外的存在に起因するとしても、その観念が当の存在に類似していると考える理由はないからである(小林道夫『哲学の歴史 第5巻』、218頁)。

そこでデカルトは、観念の由来ではなく、観念が個々に表現する内容の実在性、すなわち表象的実在性に着目する。

表象的実在性

表象的実在性(realitas objectiva)とは、観念が表現する内容の実在性のことである。デカルトは次のように述べている。

実体を私に示す観念は、単に様態あるいは偶有性のみを表現する観念よりも、一層大きな何かであり、いわばより多くの表象的実在性をそのうちに含んでいる。(『省察』、66頁)

たとえば、私が太陽を思い浮かべるとき、その観念の中には太陽の大きさや熱さといった内容が含まれている。この観念が持つ内容の豊かさ、つまり観念の中で表現されている実在性の度合いが表象的実在性である。実体の観念は様態の観念よりも多くの表象的実在性をもち、無限な実体(神)の観念は有限な実体の観念よりもさらに多くの表象的実在性をもつ。

なお、ラテン語の「objectiva」は現代語の「客観的」とは異なり、「思惟の対象として(in the mind as an object of thought)」という意味で用いられている。表象的実在性とは、事物が心の中に観念の対象として存在するかぎりでの実在性のことである。

形相的実在性

形相的実在性(realitas formalis)とは、事物が心の外に実際に存在する際の実在性のことである。デカルトによれば、「形相的なあり方は、その本性からして観念の原因に、少なくとも最初の主要な原因に一致する」(『省察』、68頁)。

実際の太陽が宇宙空間に存在し、巨大な質量と熱をもっているという、その実在のあり方が形相的実在性にあたる。

因果性の原理と神の存在証明

デカルトがこの区別を導入した目的は、観念の原因を追究することで外的実在、とりわけ神の存在を証明することにある。ここでデカルトは次の因果性の原理を要請する。

作出的・全体的原因の内には、少なくとも、この原因の結果の内にあるのと同等のものがなければならない。(小林道夫『哲学の歴史 第5巻』、218頁)

この原理を観念に適用すると、観念の表象的実在性には、それに見合うだけの形相的実在性をもつ原因が必要だということになる。

日常的な例で考えてみよう。写真に写った建物の精細な像(表象的実在性)は、実際の建物(形相的実在性)がなければ生じ得ない。観念もこれと同様であり、観念の内容の豊かさには、それに見合うだけの実在的な原因が要求される。

デカルトは、自分がもつ諸観念を検討し、石や熱や光といった有限な事物の観念については、有限な存在である自分自身がその原因でありうると認める。しかし、無限で完全な存在としての神の観念はどうか。有限な存在にすぎない「私」が、無限の表象的実在性をもつ神の観念の原因たりうるとは考えられない。したがって、この観念の原因として、無限の形相的実在性をもつ存在、すなわち神そのものが実在しなければならない。

こうしてデカルトは、「ひとり私だけが世界に在るのではなく、その観念の原因となる何か他の事物もまた存在する」(『省察』、69頁)と結論づける。

議論の意義

この議論の哲学史的意義は、「近代観念論の祖」とされるデカルトが、実は観念の内部にとどまるのではなく、観念の分析を通じて観念を超えた外的実在へ到達しようとした点にある。表象的実在性と形相的実在性の区別は、方法的懐疑によって閉じられた心の内側から、実在の世界へと架橋するための概念装置だったのである。

参考文献

  • デカルト, R.『省察』ちくま学芸文庫.(原著: Descartes, R. (1641). Meditationes de Prima Philosophia.)
  • 小林道夫「デカルト」『哲学の歴史 第5巻 デカルト革命【17世紀】』小林道夫編, 中央公論新社.

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