日記を書こう

日記を書こう。

そう言ったところで、何を書けばいいかはわからない。何のために書くのかも、よくわからない。ただ、今日あったことを、今日感じたことを、どこかに書き留めておきたいという素朴な衝動がある。たぶんそれだけでいい。

断片を並べる場所

ブログの記事や論文には構成がある。伝えたいことがあって、それに向かって文章が組み立てられている。素材を選び、順序を決め、不要なものを削り、必要なものを足す。それは編集された自己の表出だと言えるかもしれない。

日記は、その手前にある。

編集する前の断片を並べる場所。まだ何が重要かわからない。何と何がつながるのかも見えていない。その日あった出来事、ふと頭をよぎった考え、目に入った光景。それらをただ、順不同で、脈絡もなく、並べておく。

そしてその断片は、書いた瞬間にはほとんど意味を持たない。

宛先のない手紙

日記の不思議なところは、書くときと読み返すときで、まったく違うものになるということだ。

書いている瞬間は、ただの記録にすぎない。今日こんなことがあった、こう思った。それだけのこと。でも三か月後、あるいは三年後に読み返すと、書いたときには見えなかったものが見えてくる。あのときの自分はこんなことを気にしていたのか。この出来事がきっかけで、あの変化が始まったのか。バラバラだった断片のあいだに、線が引かれる。

日記の価値は、書くときではなく、読み返すときに生まれる。

この不思議の正体は、たぶん、書いている自分と読み返す自分が同じ人間ではないということだ。同一人物ではあるけれど、時間によって隔てられている。三日後の自分はもう少し先のことを知っているし、十年後の自分は今の自分には想像もつかない場所に立っている。

だから日記は、過去の自分から未来の自分への、宛先不明の手紙のようなものなのだと思う。いつ届くかわからない。届いたときの自分がどんな人間かもわからない。それでも書く。届いたときに初めて、手紙の意味が決まる。

書く自分は断片を並べる。読み返す自分が、その断片のあいだに線を引く。日記という営みは、素材の提供と編集を、同じ人間が時間差で分担しているのかもしれない。

一枚の写真を挟もう

言葉で一日を書き留めようとすると、どうしても取りこぼすものがある。

光の加減。空の色。通りの雰囲気。言語化しようとすれば何行もかかるものが、一枚の写真にはそのまま収まっている。しかも、言葉にする過程でどうしても失われてしまうものが、写真にはまだ残っている。

写真にはもうひとつ、面白い性質がある。言葉は書いた瞬間に解釈を固定する。「寂しかった」と書けば、その日は寂しい日になる。「穏やかだった」と書けば、穏やかな日として閉じられる。でも夕暮れの写真は、寂しさとも穏やかさとも読める。写真は、自分の感情をまだ確定できていないとき、確定しないまま保存できるメディアだ。

これは日記の非対称性と相性がいい。読み返すときの自分が、そのときの気分に応じて、写真に違う意味を読み込む。文章は書かれた時点で意味がおおよそ定まるけれど、写真の部分だけは毎回少しずつ違うものとして受け取ることができる。日記に写真を挟むのは、未来の自分に解釈の余地を残す行為でもある。

スマホで十分だ。構図も画質も気にしなくていい。一日一枚、そのとき目の前にあったものを撮る。それだけで、言葉だけでは拾いきれなかった一日の残余が、そこに留まる。

それぞれのやり方で

写真でなくてもいい。

音楽が好きな人なら、その日流していたプレイリストのリンクを貼るだけでもいいかもしれない。音楽もまた、聴くたびに違う感情を呼び起こすメディアだ。あのとき聴いていた曲を何年か後に聴き直したとき、曲は同じなのに、意味が変わっている。あのときの空気が、匂いのように立ちのぼってくる。

絵を描く人なら、小さなスケッチを一つ。料理が好きなら、今日の食卓の写真を。散歩が好きなら、歩いたルートを。

形式は何でもいい。日記に正解はないし、誰かの日記と比べる必要もない。自分にとって一日の手触りを残せるものを、好きなように挟めばいい。

こだわると大変

ここで、一つだけ警告しておきたいことがある。

日記の道具について調べ始めると、終わりがない。アプリ、ノート、テンプレート、タグの体系、バックアップの方法。書きやすさ、検索性、見た目。考え始めるときりがなくて、完璧なシステムなど存在しないことにすぐ気づく。

思えば、ノートを一冊買えばそれで終わりだった時代があった。ペンとノートの組み合わせには最適化の余地がほとんどなくて、だからこそ、道具のことを忘れて書く内容に集中できた。道具が透明だった。

デジタルの道具はそうはいかない。常にカスタマイズできて、常に別の選択肢がある。道具そのものが絶えず注意を引く。日記アプリを比較しているだけで週末が終わる。

日記に完璧なシステムを求めた瞬間、書くことが義務に変わる。「継続日数」が、「記録の網羅性」が、指標として自分を縛り始める。気がつけば、書くことではなく、続けることや整理することが目的になっている。

だから、適当にやろう

「適当に」というのは、怠惰のことではない。

道具を選ぶのに三日かけない。テンプレートを完成させてから書き始めたりしない。どのアプリにするか決まらないなら、とりあえずそのへんのメモ帳を開く。気に入らなければ来月乗り換えればいい。書いたものの整理なんて、あとからいくらでもできるし、しなくたって構わない。

「適当にやろう」は、道具を再び透明にするための宣言だ。最適化を手放すことで、道具を意識の外に追い出す。ノート一冊で事足りたあの頃の透明さを、意志の力で取り戻す。それは自由を維持するための、意識的な選択だ。

「今日は何もなかった」という錯覚

日記の最大の敵は、完璧主義でも道具選びでもない。

「今日は書くほどのことがなかった」という判断だ。

この判断には、小さな落とし穴がある。書く前の自分が、書いた後の自分に代わって結論を出してしまっている。でも、書いてみるまで今日に何があったかは、実はわからない。三行書き始めたら、忘れかけていた会話を思い出すかもしれない。朝見た雲のことがずっと気になっていたと気づくかもしれない。何もなかったはずの一日に、実は小さな何かがあったと、書いてみて初めて知ることがある。

だから、「適当にやろう」は、書く内容だけでなく、書くかどうかの判断そのものにも当てはまる。何もない日でも、適当に、三行でいいから書いてみる。そのとき初めて、本当に何もなかったのか、実は何かあったのかがわかる。

書くことは、一日を記録する方法であると同時に、今日を知るための方法でもある。

君の言葉で

日記に必要なものは、たぶんこれだけだ。

書く場所が一つ。できれば一枚の写真。そして、完璧でなくていいという気楽さ。

大仰なことを書く必要はない。世界を変えるような洞察も、後世に残る名文も求められていない。今日何を食べたか、誰と話したか、何がおかしかったか、何が少しだけ悲しかったか。そういう小さなことを、自分の言葉で、適当に書く。

それはいつか届く手紙になる。届いた未来の自分が、断片のあいだに思いがけない線を引いてくれる。書いたときには見えなかった模様が、時間を経て静かに浮かび上がってくる。

だから今日も、気負わずに、のびのびと。

君の言葉で、過ぎ去った今日を紡ごう。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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