時計が止まっても何も変わらない

時間が存在するかどうかを問うのは、空気の中で空気について考えるようなものだ。問いを立てた瞬間に、もう答えの中にいる。そしてその答えは、たぶん、あなたが期待しているようなものではない。

時間は存在するのか。哲学はこの問いに二千年以上取り組んできた。そして二千年経っても、まだ誰も決着をつけていない。決着がつかないのは、哲学者が怠けているからではない。問いそのものが、答えを拒んでいるからかもしれない。

壊れた時計塔

1908年、イギリスの哲学者J.M.E.マクタガートは「時間の非実在性」という論文を発表した。タイトルからしてすでに挑発的だが、中身はもっと厄介だ。

マクタガートはまず、時間には二つの秩序があると指摘する。ひとつは「過去・現在・未来」という分類で、彼はこれをA系列と呼んだ。もうひとつは「より前・より後」という関係で、こちらはB系列と呼ばれる。

B系列だけでは時間にならない、とマクタガートは言う。「ソクラテスの死はカエサルの暗殺より前」という文は永遠に真だ。変わらない。変わらないものの中に、変化はない。変化のない「時間」は、時間と呼べるだろうか。

ではA系列はどうか。「今は2026年だ」は、来年には偽になる。変化がある。だが、ここにマクタガートは矛盾を見出す。あらゆる出来事は、過去であり、現在であり、未来でもある。しかし、これらの性質は互いに排他的だ。ある出来事が同時に過去であり未来であることはできない。

「それは同時にではなく、順番にだ」と反論したくなる。ある出来事は未来だったし、現在であり、やがて過去になる。だがその「だった」「である」「なる」は、また別の時間を前提にしている。その別の時間もまた同じ矛盾を抱えている。無限後退。どこまで行っても矛盾は解消されない。

マクタガートの結論は単純だった。時間は実在しない。

理屈の上では一分の隙もない。だが、目の前でコーヒーが冷めていく。この文章を読む「前」と「後」がある。時間が非実在だとして、この冷めたコーヒーをどう説明するのか。マクタガートは、それは時間の「現実を生きる感覚」にすぎないのだと言う。見かけの秩序であって、究極的な実在ではないのだと。

砂時計の中の囚人

マクタガートの議論は百年以上にわたって哲学者たちを悩ませてきたが、彼以前にも時間に困惑した人間はいた。

4世紀、アウグスティヌスは『告白』第11巻でこう書いた。「時間とは何か。誰も私に尋ねなければ、私は知っている。しかし、尋ねられて説明しようとすると、知らないのだ」。

過去はもう存在しない。未来はまだ存在しない。現在は、とどまった瞬間にもう過去になる。では、時間のどこに存在があるのか。

アウグスティヌスの問いは、驚くほど素朴だ。素朴であるがゆえに、逃げ場がない。過去・現在・未来という三つの区分は日常語として完璧に機能するのに、そのどれもが「今ここにある」とは言えない。ある種の概念的な蜃気楼のなかで、われわれは生きていることになる。

この蜃気楼に哲学は名前をつけた。現在主義(プレゼンティズム)と永久主義(エターナリズム)。

現在主義は、存在するのは現在だけだと言う。過去の出来事も未来の出来事も、存在しない。あなたの昨日の朝食は、もうどこにもない。明日の予定も、まだどこにもない。あるのは、今この瞬間だけ。

永久主義は逆だ。過去も未来も、現在と同じように存在する。あなたの昨日の朝食は、時空の別の場所に「ある」。消えたのではない。あなたがそこにいないだけだ。宇宙は四次元の固まりで、われわれは単にその一断面を「今」と呼んでいるにすぎない。

どちらの立場も、控えめに言って、居心地が悪い。

現在主義が正しいなら、過去についての言明の真理根拠がなくなる。「恐竜は存在した」は真だが、恐竜はもう存在しない。存在しないものが「存在した」ことの根拠は、今どこにあるのか。

永久主義が正しいなら、あなたの死は「もう」起きている。まだ経験していないだけで、時空のどこかに、あなたの最後の瞬間がすでに配置されている。どうせ死ぬのだとしても、それがもう「ある」というのは、また別の種類の不快さだ。

溶けていく矢印

物理学は哲学とは別の角度から、時間を疑い始めた。

ニュートン力学の方程式は、時間の向きを反転させても成り立つ。ボールが放物線を描いて飛ぶ動画を逆再生しても、物理法則に違反しない。ミクロの世界では、時間の矢はどこにもない。

では、なぜコーヒーは冷めるのに温まらないのか。なぜ卵は割れるのに元に戻らないのか。

熱力学の第二法則がその答えを提供する。エントロピー(乱雑さの度合い)は増大する方向にしか進まない。これが「時間の矢」だ。過去と未来を区別する、物理学的な根拠。

だが、ここにも落とし穴がある。エントロピーの増大は統計的な法則であって、絶対的な法則ではない。宇宙の全粒子がたまたま元の配置に戻る確率はゼロではない。限りなくゼロに近いだけで。時間の矢は、確率の偏りにすぎないのかもしれない。

さらに厄介なことに、量子重力理論の一部の候補では、基底レベルに時間的構造が存在しない。物理学者カルロ・ロヴェッリは著書『時間は存在しない』(2017年)で、基礎的なレベルでは世界は時間順に配列された出来事の集合ではなく、ループの構成体だと提案した。時間は、温度や波のように、もっと基礎的な何かから「創発」する現象にすぎないのかもしれない。

つまり、物理学ですら、時間が本当に「ある」のかどうか確信を持てていない。

流れないもの

それでも、われわれは時間を経験する。正確に言えば、時間が「流れている」という感覚を持つ。だが、この感覚そのものが疑わしい。

時間が流れるとは、何に対して、どのくらいの速さで流れるのか。「1秒あたり1秒」では答えになっていない。時間の流れを記述するには、時間の外にもうひとつの時間が必要になる。そのもうひとつの時間にもまた流れがあるとすれば、さらにもうひとつ。ここでもまた、無限後退。

哲学者J.J.C.スマートは1949年の論文「時間の川」で、時間の流れという比喩そのものが混乱の元だと指摘した。川は空間の中を移動する。では時間は何の中を「流れる」のか。時間が流れるためには、時間の外側が必要だ。しかし時間の外側に出ることは、定義上、できない。

B理論の哲学者たちは、時間の流れは心理的な錯覚だと言う。われわれが「流れ」と感じているのは、記憶の構造と知覚の非対称性がつくり出す幻影にすぎない。あなたは過去を覚えていて、未来を覚えていない。この非対称性が、時間に方向があるという印象を生む。

だとすれば、「何も起きなかった日」が一瞬で過ぎ去り、濃密な一日が永遠に感じられるのも、時間そのものの性質ではなく、記憶の密度の問題だということになる。時間は流れていない。あなたの脳が、流れているように編集しているだけだ。

待合室

時間が存在しないとして、何が変わるのか。

正直に言えば、何も変わらない。明日も目覚まし時計は鳴るし、締め切りは来るし、コーヒーは冷める。「時間は非実在だ」と唱えても、遅刻の言い訳にはならない。

だが、何も変わらないということ自体が、少し不気味ではないか。

われわれが最も親密に、最も疑いなく信じているものが、哲学的に分析するとほとんど何も残らない。時間は過ぎる、と思う。でも何が過ぎているのかは分からない。時間は流れる、と感じる。でも何が流れているのかは説明できない。時間の中で「いつか」を待っている。でも、その「いつか」が配置されている場所が本当にあるのかどうかも怪しい。

「誰も何も選んでいない」のだとすれば、時間の流れに身を任せるという表現すら成り立たない。流れがなく、選択もないなら、われわれは何をしているのか。永久主義者に言わせれば、何かを「している」のではなく、時空の中にある特定のパターンとして「ある」だけだ。

それは慰めだろうか。それとも、慰めという概念すら時間の中でしか意味を持たないのだから、時間が消えれば慰めも消えるのか。

人生に筋書きはない。あるいは、筋書きはあるが、ページをめくっているのが誰なのか分からない。あるいは、そもそもページという概念が幻想だ。

秒針のない文字盤

結局のところ、時間が存在するかどうかという問いに答えることは、おそらくできない。できないのは、問いが悪いからではなく、答えるための道具(言語、論理、知覚)がすべて時間の内部にあるからだ。時間の中から時間を問うのは、水の中から水を掴もうとするようなもので、掴んだと思った瞬間に指の間から流れ落ちる。流れ落ちるという比喩すら、時間を前提にしている。

あなたは今、この文章を読み終えようとしている。「読み始め」と「読み終え」のあいだに何かが経過した、とあなたは感じている。だが、その「何か」の正体を、あなたは知らない。知らないまま、次の瞬間へ移る。次の瞬間が本当に「次」なのかどうかも分からないまま。

時計は動いている。ただし、それが何を測っているのかは、誰にも分からない。

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