忘れられるとしても

100億年後、地球はもうない。太陽は膨張して赤色巨星となり、この惑星はその熱に飲み込まれるか、あるいはそれよりずっと前に海が蒸発して、大気が散り、ただの岩の塊に戻っている。

もちろん、そんなことは今夜なにを食べるかとは何の関係もない。

けれど、ふとした夜に、この問いは静かにやってくる。

今やっていることに、意味はあるんだろうか。


100億年という数字は、正直なところ、問いの本質ではないと思う。100年で十分だ。もっと短くてもいい。人生を週に換算すればおよそ4000週間。その有限さは、もっと手触りのあるものになる。

よく言われることだけれど、ほとんどの人は死後三世代ほどで忘れられる。曾孫の世代になれば、あなたがどんな顔をしていたか、何が好きだったか、どんな声で笑っていたかを知っている人は、おそらくもういない。

こう書くと残酷に聞こえるかもしれない。けれど、事実としてはごく穏やかなことだ。誰もあなたを恨んで忘れるわけではない。ただ、時間が静かに流れていくだけのこと


この種の問いに向き合った人は、昔からいる。

パスカルは17世紀に、『パンセ』のなかでこう書いた。

この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる。

宇宙の広大さと、それが何も語りかけてこないことへの率直な畏怖。望遠鏡もない時代に、彼はすでにそれを感じていた。そしてパスカルは、その沈黙に耐えきれず人間が忙しさに逃げ込むことも、よく知っていた。

19世紀のトルストイは、もう少し切実だった。『懺悔』のなかで、彼は作家として名声の絶頂にありながら、突然すべてが無意味に思えるという経験を書き残している。家族がいて、財産があって、読者がいて、それでもなお、「死がすべてを消すなら、これに何の意味があるのか」という問いから逃れられなかった。

20世紀に入って、カミュはこの種の問いを正面から引き受けた。彼の言う「不条理」とは、意味を求めずにはいられない人間と、それに何ひとつ応えてくれない世界との間に生まれる緊張のことだ。

ただし、カミュは「だから絶望せよ」とは言わなかった。むしろ逆で、意味がないと知ったうえで、それでも生きることを選ぶ姿勢を描いた。

『シーシュポスの神話』の末尾に、有名な一節がある。

シーシュポスは幸福であると想像しなければならない。

ギリシア神話のシーシュポスは、神々によって永遠の刑罰を受けた人物だ。巨大な岩を山の頂上まで押し上げると、岩はまた転がり落ちる。それをただ繰り返す。結果は決して残らない。

それでも、とカミュは言う。岩を押し上げるその行為のただなかに、彼は存在している


ここで少し立ち止まって考えてみたい。

「意味」というのは、いったい何に宿るものなのだろう。

たとえば、誰にも見られることのない絵を描くとする。展覧会に出すわけでもなく、SNSに投稿するわけでもなく、ただ自分の手を動かして、色を重ねて、完成したものを棚にしまう。それには意味がないだろうか。

あるいは、日記。誰にも読まれない日記を何十年も書き続けている人がいる。その行為は、読者がいないという理由で、無価値になるのだろうか

もし意味が「誰かに認められること」や「記憶されること」に依存するのなら、ほとんどの人間の営みは、最終的には無意味ということになる。誰もいない森で木が倒れたとき、音はしたのか。けれど、それは本当だろうか。

意味というものは、結果の側にあるのではなく、行為そのもののなかにあるのかもしれない。完成した絵ではなく、筆を握っているその瞬間に。読まれる日記ではなく、それを書いている夜のしずけさのなかに


もうひとつ、少し違う角度から。

あなたのことを覚えている人が、すべていなくなったとしよう。名前も、顔も、声も、忘れられた。

けれど、あなたが誰かにかけた言葉、ふとした親切、あるいは何気ない選択が、巡りめぐって、想像もつかないどこかに影響を残している可能性はある。因果の連鎖は、あなたの名前が消えた後もどこかで続いているかもしれない。

覚えられていなくても、なかったことにはならない

これは慰めとして言いたいのではない。事実の構造として、そうなっているというだけのことだ。


さて、ここまで書いてきて、何か答えらしきものを示しただろうか。

たぶん、していない。

それでいいと思う。この手の問いは、解くものではなく、抱えるものだ。誰に頼まれたわけでもないのに、気がつけば手の中にある。荷物のように重たいのではなくて、散歩に持っていくコーヒーのように、ただそこにある。

最後に、いくつかの問いを置いておきたい。答えは要らない。ふとした瞬間に思い出してくれたら、それだけでいい。


あなたのことを最後に覚えている人がいなくなったとき、あなたは「二度目の死」を迎えるのだろうか。それは怖いことだろうか。

もし宇宙の終わりに、すべてを記録できるアーカイブがあったとしたら、あなたはそこに何を残したいだろうか。

自分がやっていることのうち、「意味があるからやっている」ことと、「意味がなくてもやっている」こと。どちらが多いだろうか。

そして、その割合に、あなたは満足しているだろうか。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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