ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』書評
本を読んで人生が変わった、と言い切れる人が、どれだけいるだろうか。本じゃなくてもいい。映画を見終わってシアターを出たとき、世界がまるで違って見える感覚を覚えたことはないだろうか。感傷的な人や多感な中高生なら、そういう経験があるのだろう。しかし大学生にもなると、そうはいかない。世の中が少し見えてくると、作り話が生ぬるく思えてくる。よくできたフィクションより、現実のほうがよっぽど手に負えない。だからだろうか、若者は本を読まなくなった。オジサンは若者の現状をみて「本離れ」と呼んで嘆くが、言われすぎてもはや定型句だ。いまさら文句をつけられようが言い返す気にもなれない。あげく『白鯨』、『罪と罰』、『失われた時を求めて』などなど、「名著を読め」ときた。いわく「のめりこむほど面白い」そうだが、そんな手あかのついた宣伝文句で心が動くほど素直ではないし、大体、オジサンが面白いと言うものは面白くないのだ。その時間でSNSを眺めていたほうがマシだ。
とはいえ、オジサンと一緒になって若者の読書離れを嘆いていても仕方ない。そこで、提案だ。思うに、文学作品はタイトルがあまりにもつまらないのだ。近年の流行にのっとって、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』をラノベ風に紹介してみよう。題して、『神の不在証明をしようとしたら家族が崩壊した件について』。要約するとそういう話だ。金と女にだらしないクソ親父のもとに生まれた三兄弟、長男は脳筋キレ芸、次男は「神がいないなら全部許されるよね?」とこじらせインテリ、三男だけはなぜか聖人だ。次男イワンの屁理屈が家族全員を巻き込んで、それぞれの生き方を揺さぶっていく。そして親父が殺される。誰が殺したのか? 動機があるのは全員。なお続編執筆中に作者死亡、永遠の未完である。
気持ちよく読めて、それっきりの本はごまんとある。何が言いたいのかわからない純文学は眠くなる。本作は違う。読んで終わり、ではない。イワンの屁理屈が、読者にまで飛び火する。問われるのは神の話だけじゃない。人間は自由なのか、罪は赦されるのか。誰もが一度は考えて、やめた問いばかりだ。答えは出ない。出ないまま、読者の中に残り続ける。衝撃だけでなく、重くるしい真実として、読者はこの問いの主体に立たされる。
さて、書評なので何かしら「批評」があるとよさそうだが、私のような尻の青い小僧がとやかく言える領域を超えている。まあ一つ文句をつけるなら、人物関係が複雑で読むのが大変だ。登場人物の名前はやたら長いし、場面によって愛称で呼ばれたりもする。やたら複雑な人物関係さえも作者の計算なのかもしれないが、読むには骨が折れる。
ちなみに、同じ問いに別の角度から向き合った作品として、同じドストエフスキーの『罪と罰』やカミュの『シーシュポスの神話』がある。イワンが「神がいなければ全部許される」と言い放ったその問いに、20世紀から応答したのがカミュだ。『カラマーゾフの兄弟』を読み終えて、まだ問いが頭から離れないなら、次に手に取る一冊として悪くない。
と、ここまで偉そうに書いてきたが、結局これも「カラマーゾフを読め」という説教に他ならない。私も晴れてオジサンの仲間入りである。
本を読んで人生は変わるのか。こんな書評を書いている私が問うのも、野暮というものだろう。