ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』書評

📝
本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

本を読んで人生が変わった、と言い切れる人が、どれだけいるだろうか。本じゃなくてもいい。映画を見終わってシアターを出たとき、世界がまるで違って見える感覚を覚えたことはないだろうか。感傷的な人や多感な中高生なら、そういう経験があるのだろう。しかし大学生にもなると、そうはいかない。世の中が少し見えてくると、作り話が生ぬるく思えてくる。よくできたフィクションより、現実のほうがよっぽど手に負えない。だからだろうか、若者は本を読まなくなった。オジサンは若者の現状をみて「本離れ」と呼んで嘆くが、言われすぎてもはや定型句だ。いまさら文句をつけられようが言い返す気にもなれない。あげく『白鯨』、『罪と罰』、『失われた時を求めて』などなど、「名著を読め」ときた。いわく「のめりこむほど面白い」そうだが、そんな手あかのついた宣伝文句で心が動くほど素直ではないし、大体、オジサンが面白いと言うものは面白くないのだ。その時間でSNSを眺めていたほうがマシだ。

とはいえ、オジサンと一緒になって若者の読書離れを嘆いていても仕方ない。そこで、提案だ。思うに、文学作品はタイトルがあまりにもつまらないのだ。近年の流行にのっとって、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』をラノベ風に紹介してみよう。題して、『神の不在証明をしようとしたら家族が崩壊した件について』。要約するとそういう話だ。金と女にだらしないクソ親父のもとに生まれた三兄弟、長男は脳筋キレ芸、次男は「神がいないなら全部許されるよね?」とこじらせインテリ、三男だけはなぜか聖人だ。次男イワンの屁理屈が家族全員を巻き込んで、それぞれの生き方を揺さぶっていく。そして親父が殺される。誰が殺したのか? 動機があるのは全員。なお続編執筆中に作者死亡、永遠の未完である。

気持ちよく読めて、それっきりの本はごまんとある。何が言いたいのかわからない純文学は眠くなる。本作は違う。読んで終わり、ではない。イワンの屁理屈が、読者にまで飛び火する。問われるのは神の話だけじゃない。人間は自由なのか、罪は赦されるのか。誰もが一度は考えて、やめた問いばかりだ。答えは出ない。出ないまま、読者の中に残り続ける。衝撃だけでなく、重くるしい真実として、読者はこの問いの主体に立たされる。

さて、書評なので何かしら「批評」があるとよさそうだが、私のような尻の青い小僧がとやかく言える領域を超えている。まあ一つ文句をつけるなら、人物関係が複雑で読むのが大変だ。登場人物の名前はやたら長いし、場面によって愛称で呼ばれたりもする。やたら複雑な人物関係さえも作者の計算なのかもしれないが、読むには骨が折れる。

ちなみに、同じ問いに別の角度から向き合った作品として、同じドストエフスキーの『罪と罰』やカミュの『シーシュポスの神話』がある。イワンが「神がいなければ全部許される」と言い放ったその問いに、20世紀から応答したのがカミュだ。『カラマーゾフの兄弟』を読み終えて、まだ問いが頭から離れないなら、次に手に取る一冊として悪くない。

と、ここまで偉そうに書いてきたが、結局これも「カラマーゾフを読め」という説教に他ならない。私も晴れてオジサンの仲間入りである。

本を読んで人生は変わるのか。こんな書評を書いている私が問うのも、野暮というものだろう。

Read more

Capture Oneに待望のネガフィルム変換機能が来た

2026年4月3日、Capture One 16.7.4 がリリースされた。目玉はなんといっても Negative Film Conversion(ネガフィルム変換) の搭載だ。これまで Cultural Heritage エディション限定だったネガ反転処理が、ついに通常の Capture One Pro / Studio でも使えるようになった。 何が変わったのか 従来、Capture One でネガフィルムをポジに変換するには、Cultural Heritage(CH)エディションを使う必要があった。CH は文化財デジタル化向けの専用製品で、Base Characteristics ツールに Film Negative / Film Positive モードが用意されていた。しかし一般の写真愛好家がフィルムスキャンのためだけに CH を導入するのは現実的ではなく、多くのユーザーは Lightroom とそのプラグイン(Negative Lab

By Sakashita Yasunobu

雨の中、歩くべきか走るべきか

傘を忘れた日の永遠の問い、歩くか、走るか、いやいっそ雨宿りをするのか。物理で決着をつける。 モデル 人体を直方体で近似。上面積 $A_{\text{top}}$(頭・肩)、前面積 $A_{\text{front}}$(胸・顔)。雨は鉛直一様(落下速度 $v_r$、数密度 $n$)、距離 $d$ を速度 $v$ で直線移動する。 人体の直方体モデルは、上から見た水平断面が $A_{\text{top}}$、正面から見た鉛直断面が $A_{\text{front}}$ の二面で構成される。移動方向は水平、雨は鉛直に降る。 受ける雨滴数は、上面が $n v_r A_{\text{top}

By Sakashita Yasunobu

T-GRAIN・Core-Shell・旧式乳剤の定量比較

Kodak T-GRAIN、Ilford Core-Shell、旧式立方晶乳剤。写真フィルムの性能を左右する三つの乳剤技術を、特許文献と数式に基づいて比較する。 1. 出発点: 旧式乳剤の構造と限界 T-MAXやDeltaが何を改良したのかを理解するには、まず従来の乳剤がどのようなものだったかを押さえておく必要がある。 1980年代以前、標準的なハロゲン化銀乳剤はAgBrやAgBr(I)の結晶が立方体(cubic)か不定形(irregular)の形をしていた。Tri-XやHP5の祖先にあたるこれらの乳剤では、結晶のアスペクト比(直径対厚さの比)はおおむね1:1から2:1。三次元的にほぼ等方的な粒子が乳剤層にランダムに散らばっていた。 この形態が感度と粒状性のトレードオフに直結する。立方晶粒子を一辺 $a$ の立方体として近似すると、表面積と体積、そしてその比は次のとおりである。 $$ S_{\text{cubic}} = 6a^2, \quad V_{\text{cubic}} = a^3, \quad \frac{S}{V} = \frac{6}

By Sakashita Yasunobu

クジラはなぜがんにならないのか

体が大きい動物ほど細胞の数が多い。細胞が多ければ、そのうちどれかががん化する確率も高くなるはずだ。ところが現実には、クジラやゾウのがん発生率はヒトよりも低い。1977年、疫学者リチャード・ピートがこの矛盾を指摘した。以来この問いは「ピートのパラドックス」と呼ばれ、比較腫瘍学における最大の謎のひとつであり続けている。 種の中では予測通り、種の間では崩れる 同じ種の中では、直感どおりの傾向が確認されている。身長の高いヒトはそうでないヒトよりがんの発生率がやや高く、年齢を重ねるほどがんは増える。細胞の数が多いほど、細胞分裂の回数が多いほど、がん化の確率は上がる。 しかし種を超えて比較すると、この関係が崩壊する。シロナガスクジラの細胞数はヒトの約1000倍にのぼるが、がんの発生率がヒトの1000倍になるわけではない。哺乳類全体を見渡しても、体サイズとがんリスクの間に明確な正の相関は長い間見つかっていなかった。がんの発生率は種が異なっても約2倍の範囲にしか収まらないとされてきた。体サイズの差は100万倍を超えるにもかかわらず。 ゾウが持つ余分ながん抑制遺伝子 最もよく知られた説明は

By Sakashita Yasunobu