大学の管理運営と多様化

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

大学に限った話ではなく、事業を円滑に動かすためには合理的・効率的な運営が必要となる。そのための大学の管理運営のあり方のひとつとして江原は「大学構成員、特に大学教員の考え方や意思決定を重視する同僚性的管理運営から、大学の経営責任がある理事会の理事と学長とか副学長などの上級大学管理者の権限が強い企業的管理運営へ変化すること」を提唱している(1)。大学が企業的に行動することで、市場によって競争が促されることが期待される。

McNayの分類による管理運営の理解

講義によればMcNayの分類では、同僚制は外部統制も内部統制もともに緩やかであり、その特徴は「規則は緩く、大学の方針は明確に示されない」ため「発展期に有効」である。また、企業制とは、外部統制が緩やかである一方で内部統制は厳しいという分類がなされている。その特徴は「規則は緩いが大学の方針は計画的に策定される」というものである(2)。異なった視点からでは、たとえば、現在の日本ではトロウが提唱したマス型の教育からユニバーサル型へ移行しつつあることから、もはや発展期ではないといえる。こうした理由からも江原の企業的管理運営への移行の理由を考えることができる。

大学の多様化への提言

また、筆者は大学多様化のために、大学の組織がそれぞれの自立性を高めてゆくべきだと考えている。

これは筆者の経験であるが、大学を志願する上で選択の基準となった最も大きな要因は「偏差値」であった。文部科学省の調査『学校基本調査』によれば、令和三年度の大学数は803校である(3)。筆者はこれらの学校が学力順にまんべんなく存在し、あらゆる学力ニーズに応じた大学になるのではなく、各大学が特色を生かし、各人が学びたいことに合致した大学があるようになればと思う。これに関して梶田も、現代の日本では増えてきた大学に対して「これからのそれぞれの大学、短大が多様なあり方を追求しなければいけない。みんなミニ東大やミニ京大になったってしようがないんです」と鋭く指摘している(4)。大学の本来の目的は学校教育法第八十三条によって「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」となっていることから、学歴といった視点ではなく、学びたいことへのマッチという視点から、学生の多様化に合致するよう大学側の多様化を進めるのはどうかという提案である。江原の企業化も「日本型大学改革のゆくえ」について、「1. 大学経営の健全化」「2. 増大する利害関係者のニーズへの対応」「3. 大学の多様化」を進めていくべきだと指摘していることから、企業制にすることは「大学の多様化」の手段とみることができる(5)。

以上から、現在大学は発展期が終わり安定した時期に到達したが、それによりかつての管理運営方法が見直されるべき時期が来たといえることがわかった。その一つの方法として大学の企業的性質を強めることが提唱されており、筆者はさらにそれに加え多様化も進めるべきなのではないかと考える。

参考文献

  • (1) 江原武一「大学と国家・市場」『組織としての大学:役割や機能をどう見るか』第1章、広田照幸ほか編、岩波書店、2013年、p. 37.
  • (2) 岩崎保道「大学のミッションと組織」『大学政策論入門』第5回講義.
  • (3) 文部科学省『令和3年度学校基本調査(確定値)報道発表資料』p. 3(PDF、2022年5月29日閲覧)
  • (4) 梶田叡一『新しい大学を作る』有斐閣、2000年.
  • (5) 前掲書、pp. 47-52.

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

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意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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