教育の目的と自由

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

今回の講義を通して、大学も法律によってさまざまなことが規定されていることを学んだ。本稿では、教育の目的と本質に立ち返りながら、国による教育統制のあり方について考察する。

教育の本質

世界を変えるのは結局のところ人々であり、そのための明晰さ、分析能力などの開発を行う場こそ教育であると考える。つまり、教育の場とは社会の最も重要で基礎的な改革の始まりの場でもあると考えられる。だからこそ、国民の三大義務の一つは教育についての規定になっているのではないだろうか。

ところで筆者は、学ぶこととは自分にとっての世界の解像度、色域を広げることだと考えている。知識を持つことで物事をより深く、関連付けて、興味深く見ることができるようになるからだ。大学では高等教育を学ぶため、より専門性を深めていく一方、広範な教養も身につける。筆者は特にこの教養に類される知識に着目しており、教養を身につけることで世界の仕組みが見えるように思える。

実際に佐藤[佐藤晴雄 2003]は教育の目的と本質について

文化が蓄積され、高度化してくると、それを次世代に伝え、その発展を促す機能が求められてくる。その機能こそが原初的な形態の『教育』であり、その内容は文化財(広い意味での文化財のことで、人間の文化的活動によって生み出されたものという意味)によって形成されてきたのである

と解説している。教育とは文化の継承と発展を担う営みであり、その重要性は古今東西を問わない。

戦後教育と国家統制の問題

しかしながら堀尾[堀尾輝久 1995]は戦後の教育を「教育が国民の義務から権利へと転換し、忠良な臣民の育成から、人間性豊かな人格の発達がその理念となった」と高く評価しつつも、「学校への統制が再び強まり競争と選別の機能が重視されてくるなかで社会全体が『学校化』する事態が引き起こされていく。国家の復権と管理体制の強化の中で、学校の自由な雰囲気が失われ」ていると警鐘を鳴らしている。天野[天野正輝 1993]も同様の警告をしており「能力主義的再編成をもたらし、教師の実践に対する国家統制が強化されて子供の取り巻く状況は年ごとに深刻の度を加えてきている」と指摘している。

つまり、現在の国による教育制度にはいささか問題があると認められる。教育の本質が文化の継承と人格の形成にあるならば、過度な統制はその目的を損なうおそれがある。しかしながら行き過ぎた放任もまた問題であり、教育の質を担保するための適切な枠組みは必要である。自由と統制の中庸をいかにして見出すか。この問いは、大学のみならず教育全般にわたる根本的な課題である。

参照文献

  • 佐藤晴雄『現代教育概論』第3次改訂版、学陽書房、2003年.
  • 天野正輝『現代学校論:いま学校に問われているもの』天野正輝・窪島努・橋本伸也 編、晃洋書房、1993年.
  • 堀尾輝久「学校の現在と学校論の課題」『講座学校1 学校とは何か』第1章、児美川孝一郎 ほか編、柏書房、1995年.

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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