電子のゴミ
私は自分がつくるものをすべて「電子のゴミ」と呼んでいる。
別に気取っているわけでも、深刻ぶりたいわけでもない。ただ、少しだけ正直に言ってみただけだ。
文章を書く。写真を撮る。何かをつくる。それらはすべてデジタル機器の上で行われている。物理的に見れば、CPUの演算、RAMに保持された一時的な電荷、ストレージ上の微小な磁気パターン、ネットワークを流れる電気信号。いってしまえば、電子がどこかに移動して、どこかに留まって、その程度のことだ。
もちろん、厳密にはそう単純ではない。デジタルとはいえ、その土台にはアナログな物理過程がある。何かを書く行為が世界にまったく影響を及ぼさないとは言い切れないし、ちょっとした発信が思わぬ波紋を呼ぶことだってある。
でも、と思う。
画面に映る文字は液晶の発光パターンだ。紙に印刷すればインクの染みだ。ディスプレイの電源を落とせば、表示されていたものは消える。LEDが光を放つのも、インクが紙に定着するのも、結局は物理現象に過ぎない。
自分がそのとき抱いた価値。それは、LEDのちらつきだったのかもしれないし、インクのシミだったのかもしれない。
だから、電子のゴミ。自虐ではあるけれど、嘘ではない。
価値がなければだめなのか
こうして電子のゴミを生み出し続けていると、ふとした瞬間に考えることがある。自分にとって切実な意味があると思えた文章も、他の誰かにとってはゴミかもしれない。そして時間が経って、自分ですら見返さなくなったとき、それは文字通りゴミになる。
でも、ここで少し立ち止まりたい。
そもそも、価値がなければだめなのだろうか。
テストを受けたとして、自分より優れた人がいたからといって、その瞬間に自分の存在が否定されるわけではないだろう。何かとの比較で劣っていることと、存在そのものの肯否は、本来まったく別の話だ。
「ゴミ」と呼んでしまうこと自体が、ものの見方を少し歪めているのかもしれない。価値があるかないかという尺度でしか測れないと思い込んでいること自体が、視野を狭くしているのかもしれない。
価値の有無が問題なのではなくて、価値でしか語れないと思っていることのほうが問題なのだとしたら、「電子のゴミ」という呼び方自体を見つめ直す必要があるのかもしれない。
でも、まだその答えは出ていない。
私もまた電子の何か
ここで少し飛躍する。
ヒラリー・パトナムが「水槽の中の脳」という思考実験を提示したことがある。もし私たちの脳が水槽の中に保存され、コンピュータからの電気信号によって今この瞬間の体験すべてが与えられているのだとしたら、そのことを知る手段はあるのかという問いだ。パトナム自身は意味の外在主義の観点からこの懐疑論を退ける議論を展開しており、私もその懐疑に乗りたいわけではない。
ただ、こういうことを考え始めたときに訪れる、あの居心地の悪さに触れたい。
物理的に見れば、「私」と呼んでいるこの存在は、ニューロンの発火とシナプス間の化学伝達の積み重ねなのかもしれない。そう意識した途端に、自分というものの輪郭が曖昧になっていく。
なんだかAIと大差ないような気分になる。
もちろん、人間の脳と現在のAIはまったく異なる仕組みで動いている。ニューラルネットワークという名称こそ神経細胞から着想を得ているが、実際の動作原理は大きく異なる。技術的な差異は百も承知だ。
それでも、夜中に階段を歩いていて次の段を踏み損ねたときの、あの一瞬の浮遊感に似たものがある。足元がふいに頼りなくなる感覚。自分が何なのか、わからなくなる一瞬。
今はまだ頼りないAIかもしれない。でもその向こうに、自分との境界線が見えなくなるような何かが待っている気がして、少しだけ落ち着かない。
自分自身が「電子の何か」であるとしたら。いずれは消えゆく、目的の定まらない存在であるとしたら。「電子のゴミ」と呼んだところで、そう間違ってもいないだろう。
おびえながら歩く
この話に、すっきりした結論はない。
自分のやることに世界を変えるような力があるとは思っていない。電子のゴミかもしれないものを生み出し続けることに、確固たる正当化を持ち合わせているわけでもない。
でも、と思う。
ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』の第一部で、精神の三つの変化について語っている。精神はまず、重荷を進んで背負い砂漠を行くらくだになる。次に、「汝なすべし」に対して「否」を叫ぶ獅子になる。そして最後に、無垢と忘却と新しい始まりの子どもになる。子どもは「然り」と言う。自ら回る車輪のように、遊びとして、ただ創造する。
自分はおそらく、まだらくだだ。何が正しいのか、どう在るべきかという問いの重さを背負い、砂漠を一歩ずつ歩いている。義務の重力と、理想の眩しさに引っ張られながら。その先には獅子の「否」があり、さらにその向こうに、子どもの遊びがある。
電子のゴミかもしれないことにおびえつつも、いつか子どものように、ただつくること自体を遊びとして肯定できたらと思う。
あるいは、できないのかもしれない。
でも少なくとも、今はまだ歩いている。電子のゴミを生み出しながら。