あなたの贈り物は届かない

誰かに何かを贈ったことがあるだろう。そしてそのたびに、あなたは失敗している。

贈り物という嘘

私たちは贈り物をする。誕生日に、クリスマスに、あるいは何でもない日に。「気持ちだから」と言い添えて差し出す。見返りなんて求めていない、と本気で思っている。

しかし、贈った瞬間に何が起きているかを正直に見つめてみると、事態はそう美しくない。

相手が喜べば、こちらも嬉しい。感謝されれば、満たされる。「いい人だ」と思われることの心地よさ。贈る行為には、差し出す側にとっての報酬がすでに織り込まれている。純粋な善意のつもりでも、その善意そのものが一種の見返りになっている。

そして受け取る側はどうか。「もらったからにはお返ししなければ」という圧力が、意識するしないにかかわらず、静かに発生する。お中元にはお歳暮を。結婚祝いには内祝いを。香典には香典返しを。日本社会はこの構造をきわめて精緻に制度化してきた。

贈り物は、贈られた瞬間に「負債」になる。

モースが見たもの

フランスの社会学者マルセル・モースは、1925年に発表した『贈与論(Essai sur le don)』で、贈与の構造を正面から分析した。

モースが調べたのは、ポリネシアやメラネシア、北米先住民の社会で行われていた贈与交換の慣行だった。ポトラッチと呼ばれる北西海岸先住民の儀礼的な贈与の祭りでは、部族間で大量の財が贈られ、受け取られ、返礼された。贈与は自発的に見えて、実際には三つの義務によって駆動されていた。

与える義務。受け取る義務。返す義務。

贈り物を拒むことは侮辱であり、返さないことは社会的な死を意味した。贈与は気前の良さの表現であると同時に、名誉と権力の争いでもあった。より多く贈り、より盛大に返すことで、社会的な序列が決まる。

モースはこの構造を「全体的社会的事実(fait social total)」と呼んだ。贈与は単なる経済行為ではなく、法的、道徳的、宗教的、美的な次元を同時に含む、社会の全体を貫く現象だった。

重要なのは、モースがこの構造を「未開社会の遺物」として片づけなかったことだ。彼はむしろ、近代の市場経済のほうが例外的であり、贈与の論理こそが人間社会の根底にある原理だと考えた。

つまり、私たちが日常的に行っている贈り物のやり取りは、モースの目には、数千年にわたって人類を結びつけてきた互酬性の構造の延長線上に映る。自発的に見えて、義務に満ちている。自由に見えて、関係の網に絡め取られている。

デリダの不可能性

ジャック・デリダは、1991年の著作『時間を与える(Donner le temps)』で、モースの議論をさらに根本的な場所へ押し込んだ。

デリダの問いはこうだ。贈与が成立するための条件は何か。そしてその条件は、贈与そのものと両立するのか。

贈与が贈与であるためには、返礼があってはならない。返礼が生じた瞬間、それは交換になり、贈与ではなくなる。ここまではモースと同じ問題意識だ。しかしデリダはさらに踏み込む。

贈与が贈与であるためには、受け取る側がそれを贈り物だと認識してはならない

なぜか。受け取った側が「これは贈り物だ」と認識した瞬間、感謝や負い目が生じる。感謝は心理的な返礼であり、負い目は将来の返礼の予約だ。つまり、贈り物として認識されること自体が、交換の回路を起動してしまう。

さらに言えば、贈る側もまた、自分が贈っていることを意識してはならない。「自分は今、贈り物をしている」という自覚は、贈与者としての満足感や自己肯定感を生み出す。それはすでに心理的な見返りだ。

デリダの結論はこうなる。贈与が純粋に贈与であるためには、贈る側も受け取る側も、それが贈与であることを知らない状態でなければならない。しかし、誰もそれを贈与と知らないのであれば、それは贈与として存在しない。

贈与が贈与であるための条件は、贈与が贈与として現れないことである。

デリダはこれを「不可能なもの(l'impossible)」と呼んだ。贈与は不可能である。その可能性の条件が、同時にその不可能性の条件でもあるという、アポリア(行き詰まり)の中に閉じ込められている。

円環の中の私たち

このアポリアは、抽象的な哲学の問題に見えるかもしれない。しかし、少し立ち止まって考えると、私たちの日常に深く根を下ろしていることに気づく。

誰かに親切にする。すると「いい人だね」と言われる。その評価は報酬だ。親切にしたことを誰にも知られなかったとしても、「自分は正しいことをした」という内的な満足がある。それもまた報酬だ。

匿名の寄付はどうか。名前を出さずに寄付する。しかし「匿名で寄付した自分」を自分は知っている。その自覚がもたらす道徳的な充足感は、贈与の純粋さを内側から侵食する。

ボランティア活動。無償の奉仕。しかし「無償で奉仕している」という自己認識は、ある種の自尊心を支える。履歴書に書ける。人に語れる。「何の見返りも求めていません」と言うこと自体が、道徳的な高みに自分を置く行為になりうる。

どこまで掘っても、交換の回路が見つかる。純粋な贈与を実現しようとすればするほど、その試みそのものが新たな交換を生み出す。円環は閉じている。

赦しという隣人

デリダは贈与と並べて、赦し(pardon)についても似た構造を見出している。

赦せるものを赦すのは、赦しではない。軽い過ちを「まあいいよ」と受け流すことは、赦しの名に値しない。赦しが赦しであるためには、赦せないものを赦さなければならない。しかし、赦せないものは赦せない。だから赦しもまた、不可能なものとして、可能になる。

贈与と赦し。どちらも、純粋であろうとした瞬間に自壊する。経済的な円環(贈れば返される)を断ち切ろうとする行為が、別の円環(道徳的な自己充足)を生み出してしまう。

この構造は、AIの文章に価値はあるかで触れた「意味の所在」の問題と、どこか似た手触りを持っている。テキストに意味が内在しないように、贈り物にも「純粋さ」は内在しない。意味を吹き込むのが読者であるように、贈与の意味を決定するのは、贈る側でも受け取る側でもなく、そのあいだに生じる関係の構造そのものかもしれない。

無条件の贈与は、宗教の領分か

興味深いことに、無条件の贈与という概念は、宗教的な文脈でもっとも力強く語られてきた。

キリスト教のアガペー(無償の愛)。仏教の布施(見返りを求めない施し)。イスラームのザカート(義務的な喜捨)。いずれも、人間の利己的な交換の論理を超えた贈与の可能性を信仰の核に据えている。

しかしデリダの分析に従えば、宗教的な贈与もまたアポリアを免れない。神への奉仕が来世の報酬を期待するものであれば、それは投資だ。「見返りを求めない」という態度そのものが、精神的な徳の蓄積という形で回収される。宗教的な無条件性は、より大きな条件(救済、解脱、天国)の中に包摂されているとも言える。

もちろん、これは宗教的実践を矮小化したいわけではない。むしろ、純粋な贈与の不可能性がいかに根深いかを示しているにすぎない。人類がもっとも真剣に「無条件の与え方」を追求してきた領域ですら、条件の影がちらつく。

不可能でも、贈る

では、贈与は完全に幻想なのだろうか。すべての贈り物は偽善であり、すべての善意は自己欺瞞なのだろうか。

そうは思わない。少なくとも、そう断定してしまうのは、デリダの議論を正確に読んでいない。

デリダにとって、「不可能」は「存在しない」と同義ではない。贈与が不可能であるとは、贈与が完全に純粋な形では実現しえないということであって、贈与的な何かがまったく生じないということではない。デリダ自身、「不可能なものが自らを思考に与える」と述べている。不可能であることは、その不可能なものに向かって行為することを妨げない。

ここには、美しさに応えることで考えた「応答」の構造と重なるものがある。美しさに応答するとき、その応答に根拠はない。贈与もまた、根拠がないまま行われる。純粋ではありえないと知りながら、それでも贈る。その「それでも」の中に、贈与の倫理的な核があるのかもしれない。

返礼の向こう側

モースが記述した社会では、贈与は関係を作り、維持し、強化する力を持っていた。返礼の義務は束縛であると同時に、社会的な絆の証でもあった。

デリダが指摘したアポリアは、この構造のもっとも深い層に光を当てる。私たちは純粋に贈ることができない。しかし、純粋に贈れないということは、私たちが常にすでに関係の中にいるということでもある。完全に独立した個人が完全に自由な意思で完全に無条件に何かを差し出す、というモデルそのものが、もしかすると幻想なのかもしれない。

人は最初から関係の中にいる。贈与はその関係を表面化させるだけだ。モースが「全体的社会的事実」と呼んだものの正体は、個人と社会の分離不可能性そのものだったのかもしれない。

電子のゴミで書いたように、自分が生み出すものに固有の価値が宿っているかどうかは、根本的に不確かだ。同じように、贈り物に「純粋な善意」が宿っているかどうかも、根本的に不確かだ。でも、不確かであることと、無意味であることは違う。

あなたの贈り物について

純粋な贈り物は不可能だ。あなたが何かを贈るたびに、そこには見返りがあり、期待があり、自己満足がある。あなたの善意は完全ではなく、あなたの無償性は嘘を含んでいる。

そのことを知った上で、それでも贈ること。

デリダは贈与を「不可能なものの形象(the very figure of the impossible)」と呼んだ。不可能であるがゆえに、贈与は私たちに問い続ける。あなたは本当に贈っているのか。あなたの善意は本物か。あなたは誰のために差し出しているのか。

その問いに答えは出ない。出ないまま、次の誕生日にまた何かを買いに行く。包装紙を選び、カードを書き、「気持ちだから」と言い添える。

不可能な贈り物を、不可能なまま、差し出し続ける。それが、比喩の美しさと危うさで触れた「言語化した瞬間に経験が変質する」という事態と同じ構造を持っているとしたら、贈与とは、純粋さを失い続けることを引き受ける行為なのかもしれない。

私たちにできるのは、そのことにおびえながら、それでも手を差し出すことだけだ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

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