最初の一言が全員の席を決める

グループワークの課題が出た瞬間、教室に微かな緊張が走る。3人から5人のグループに分かれ、テーマについて議論し、成果物をまとめる。大学では何度も経験する光景だ。

そして不思議なことに、何度やっても、同じような役割分担が「自然に」出来上がる。誰かが仕切り始め、誰かが黙り、誰かがなんとなく調整役に回る。メンバーが違っても、構造は似ている。

性格の問題だろうか。もう少し踏み込んで考えてみると、どうもそうではなさそうだ。

最初の30秒で決まる

グループワークの役割分担は、最初の30秒でほぼ決まる。

グループが形成された直後、最初に口を開いた人間が、その後のグループ内での発言権を大きく獲得する。最初の発言者が議論の方向を設定し、他のメンバーはその方向に沿って自分の位置を調整する。いわば、最初の一手がゲーム全体の構図を決めてしまう。

一度固定された発言量のバランスは、その後の議論でほとんど変化しない。最初に多く話した人はますます多く話し、最初に黙っていた人はますます黙る。フィードバックループが回り始めると、役割は急速に固定化する。

つまり、リーダーになったのは能力や性格のためではなく、たまたま最初に口を開いたからだ、ということが十分にありうる。

社会的手抜きという構造

グループの人数が増えるほど、一人あたりの貢献度が下がる。フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンが1913年に報告した綱引きの実験は、この現象の古典的な実証だ。

2人で引くとき、一人あたりの出力は最大値の約93%。3人になると85%、8人になると49%まで落ちる。力を合わせているはずなのに、人数が増えるほど個人の出力は下がる。

これは怠惰の問題ではない。構造の問題だ。個人の貢献が全体に埋もれて可視化されにくくなると、最大限の努力をする動機が薄れる。自分が少し手を抜いても、全体の成果にはほとんど影響しないように見える。全員がそう考えれば、全員が手を抜く。

大学のグループワークでは、この効果がさらに増幅されやすい。成績評価がグループ単位で行われる場合、個人の貢献度は外部からほとんど見えない。努力できない仕組みの分析で書いたように、努力は意志の問題ではなく環境の設計の問題だ。個人の貢献が評価されない環境では、手を抜くほうがむしろ合理的な選択になる。

沈黙者の事情

グループワークで黙っている人を「フリーライダー」と呼ぶのは簡単だ。しかし、沈黙にはいくつかの異なる種類がある。

まず、発言のタイミングを逃しているだけという場合。議論の流れが速いと、言いたいことを整理している間に話題が移ってしまう。一度タイミングを逃すと、次の発言のハードルはさらに上がる。

次に、自分の意見に自信がないという場合。他のメンバーが詳しそうに見えると、「自分が言っても的外れかもしれない」という不安が発言を抑制する。

さらに、意図的に観察しているという場合もある。議論全体の流れを把握し、最後にまとめる役割を無意識に引き受けている人もいる。

沈黙は怠慢の表れとは限らない。「黙っている人は貢献していない」という判断は、発言量を貢献の唯一の指標として扱っている。それは誰も学びを測れないで論じた「測定可能なものだけを評価する」という罠と同型だ。

教員が見ているもの、学生が感じているもの

教員がグループワークを設計するとき、念頭にあるのは「協働学習」の理想だ。多様な視点が交わり、議論を通じて理解が深まり、個人学習では到達できない成果が生まれる。教育学の教科書には、そう書いてある。

学生の側から見える景色は、たいてい違う。誰がスライドを作るのか。誰が発表するのか。締め切りの前日に連絡がつかないメンバーをどうするのか。協働の理想と分業の現実のギャップに、学生はしばしば疲弊する。

ブルース・タックマンが1965年に提唱したグループ発達モデルは、集団が「形成(forming)→混乱(storming)→統一(norming)→機能(performing)」という段階を経ることを示している。大学のグループワークの多くは、期間が短すぎてこのサイクルを回しきれない。混乱期のまま成果物を提出し、解散する。グループが機能するための時間が、構造的に足りていない。

機能するグループの条件

では、役割の固定化を防ぎ、より機能的なグループワークを実現するにはどうすればいいのか。

第一に、人数を絞ること。グループのパフォーマンスは4人前後でピークに達することが多い。5人を超えると、社会的手抜きが増加し、コミュニケーションコストが急増する。

第二に、役割を明示的に交代させること。「今回はこの人がファシリテーター、次回は別の人」という形で強制的に回せば、初期発言による固定化を防げる。

第三に、個人の貢献を可視化すること。最終成果物だけでなく、誰が何を担当したかを記録し、共有する。貢献が見える化されれば、社会的手抜きの動機は減る。

もっとも、これらの多くは教員の側が設計すべきことであって、学生個人にできることは限られている。学生の立場でできるのは、自分がどの役割に固定されているかを自覚し、意識的に別の役割を試してみることくらいだ。

構造に気づくこと

グループワークで観察される役割分担の構造は、大学を出た後もそのまま続く。会議、プロジェクトチーム、地域のコミュニティ。人が集まれば、リーダーと沈黙者と調整役が生まれる。

大学で友達の作り方で触れたように、大学での人間関係は社会に出てからの関係構築の予行演習でもある。グループワークは面倒だ。しかし、その面倒さの中に、自分がどのように集団の中で振る舞う傾向があるかを知る手がかりがある。

次のグループワークで、自分がいつもと同じ役割に滑り込んでいることに気づいたら、少しだけ違うことを試してみてもいい。いつも黙っているなら、最初に口を開いてみる。いつも仕切っているなら、一歩引いて誰かに任せてみる。

役割は構造が作り出す。しかし、構造に気づけば、少しだけ自由になれる。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

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綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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