趣味を愛する者だけが辿り着く場所

技術の最前線を走っているのは、なぜプロではないのか。

カメラのレンズ光学テストで最も精密なデータを公開しているのは、メーカーでもプロ写真家でもなく、個人の愛好家が運営するWebサイトだ。天文学の新天体発見において、アマチュア観測者は今なお重要な役割を担っている。世界のインターネットインフラの根幹を支えるLinuxは、一人の大学生が趣味で書き始めたコードから生まれた。

「ハイアマチュア」という言葉がある。もともとはカメラ業界のマーケティング用語として定着した言葉で、プロ向けとエントリー向けの間に位置する製品カテゴリを指していた。しかしこの言葉が示す現象は、カメラ業界に限らない。報酬を受け取らないがゆえに、報酬の論理に縛られない人々が、技術や知識の最前線を開拓しているという構造は、あらゆる分野に見られる。

プロは最先端にいない

直感に反するが、多くの分野でプロフェッショナルは技術の最先端にいない。

理由は単純だ。プロは「仕事として成立する範囲」に最適化する。クライアントが求めているのは「十分な品質」であって「到達可能な最高の品質」ではない。納品物の品質を95点から98点に上げるために必要な追加コストは、たいてい対価に見合わない。だからプロは95点で止める。合理的な判断だ。

時間の問題もある。プロには納期がある。案件が終われば次の案件が来る。一つのテーマを際限なく掘り下げる余裕はない。一方で、趣味でやっている人間には、原理的に無限の時間がある。週末の夜を、誰にも頼まれていないレンズの解像度テストに費やすことができる。納期がないから、「もう少し精度を上げてみよう」と思えば、そのまま続けられる。

永遠の素振りという構造がここにある。手段であったはずの技術の習得が、いつしか目的そのものに変わる。報酬も締め切りも評価も関係なく、ただ精度を上げること自体が快楽になる。アマチュアの語源はラテン語のamator、つまり「愛する者」だ。好きだからやる。好きだからやめない。好きだから、プロが合理的に打ち切る地点のさらに先へ進む。

歴史が証明する構造

この構造は、繰り返し歴史に現れている。

リーナス・トーバルズがLinuxカーネルを書き始めたのは1991年、ヘルシンキ大学の学生だったときだ。動機はシンプルで、自分のPCで動くUNIX風のOSが欲しかった。学術的な成果を目指したわけでも、ビジネスとして構想したわけでもない。趣味のプロジェクトだった。そのコードが、現在ではサーバー、スマートフォン(Android)、スーパーコンピュータ、そしてクラウドインフラの大部分を動かしている。

アマチュア天文家による小惑星や彗星の発見は、プロの大型望遠鏡が空を覆い尽くした現在でもなお続いている。プロの天文学者は限られた観測時間を特定の研究テーマに集中させるため、空の大部分は「誰も見ていない」状態にある。その隙間を埋めているのが、自宅の望遠鏡で毎晩空を見上げるアマチュアだ。

Wikipediaの記事の大半は、報酬を受け取らない編集者によって書かれ、維持されている。百科事典を商業的に運営しようとしたMicrosoft Encartaは2009年にサービスを終了した。無報酬のアマチュアの集合知が、企業の有償プロジェクトを圧倒した事例として語られることが多い。

「好きだから」の強さと脆さ

内発的動機づけの強さは、心理学でも広く研究されている。報酬がなくても続く行動は、報酬によって駆動される行動より持続性が高いとされる。好きなことをやっている人間は、義務でやっている人間よりも長い時間を注ぎ、深いところまで潜る。

しかし、内発的動機には構造的な弱点がある。飽きたら終わる。

プロには「嫌でもやる」仕組みがある。契約、報酬、評判。これらが外的な拘束力として機能し、モチベーションが枯れた日にも仕事を継続させる。アマチュアにはこの仕組みがない。引き継ぎもない。ハイアマチュアが長年蓄積してきた知識やデータが、その人が活動をやめた瞬間に散逸するリスクは常にある。

ハイアマチュアに依存する分野は、特定の個人の情熱に支えられている。その構造は美しいが、脆い。一人が去れば穴が開く。穴を埋める制度的な仕組みは存在しない。努力が続かないのは意志の問題ではなく環境の問題だという分析は、ハイアマチュアの持続性にもそのまま当てはまる。情熱は環境が支えている。環境が変われば、情熱も変わる。

プロとアマチュアの境界線

プロとアマチュアの境界を「収入の有無」で引くのは、分かりやすいが正確ではない。

写真の世界では、週末にしか撮らないが光学や色彩について深い知識を持つ愛好家がいる。毎日撮影しているが技術的な関心は薄く、クライアントの要望を忠実に再現することに特化したプロもいる。どちらが「上」ということではない。目的が違う。プロは「求められたものを安定して届ける」ことに最適化され、ハイアマチュアは「自分が知りたいことを徹底的に追究する」ことに最適化されている。

レンズは一本でいいという判断ができるのは、機材の性能差が実際の撮影結果にどう影響するかを自分の手で検証した人間だ。それは必ずしもプロではない。プロは「仕事に必要なレンズ」を持つ。ハイアマチュアは「なぜそのレンズでなければならないか」を問う。問いの深さは、報酬の有無とは関係がない。

褒め言葉か、それとも

「ハイアマチュア」は褒め言葉なのか。

プロになれなかった人の婉曲表現なのか。あるいは、プロにならないことを選んだ人の矜持なのか。

おそらく、どちらでもない。ハイアマチュアとは、ある分野に深く没入しながらも、その没入を収益化しないことを(意識的にであれ結果的にであれ)選んだ状態を指している。そこには自由がある。クライアントの要望に応える必要がない。市場の需要に合わせる必要がない。自分の興味だけを羅針盤にできる。

その自由は、同時に不安定さでもある。誰にも認められなくても続けられるか。成果が社会的に評価されなくても手を動かし続けられるか。誰も見ていない花壇を手入れし続けることの意味を、自分の中で見つけられるか。

ハイアマチュアが技術の最前線を支えているという事実は、人間の行動が報酬だけでは説明できないことの証拠だ。好きだからやる。それ以上の理由はない。そしてその「それ以上の理由がない」ことこそが、プロの合理性が到達できない場所まで人を連れていく。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu