IRと大学経営

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

本稿の目的

経営資源として一般に挙げられる要素はヒト、モノ、カネであり、近年はさらに情報が加えられた四つとされることもある。このように現代社会においてデータは経営において重要な位置を占めており、大学経営の今後を考える上でも必要不可欠な要素となっている。本稿ではそのデータの活用法について大学経営という視点から考察していくこととする。

IRとデータ

ところで、データを活用して大学の運営方針を考える上で、実際にデータを活用し、大学の意思決定をするための情報提供を行うのはIR(Institutional Research)と呼ばれるものである。しかし、IRが行う活動を一言で表すことは難しく、その理由を小林と山田は「実践的な活動」であること、「IRが現在でもなお発展を続けていること」、「多様性」の三つとして指摘している(1)。データの活用一つをとり、その応用を考えられる事例は枚挙にいとまがない。たとえば、社会が大学に求めているもの(ニーズ)の分析、学生募集、他校との比較、大学運営の効率化などといった具合である。これらのIRの適用領域とそのツールについて小林と山田は「ダッシュボード、環境スキャンと高等教育政策の動向分析、SWOT分析など」を挙げている(2)。

大学を取り巻く情報の変化

次に、IRの扱うデータの変化について論じる。近年ではビッグデータと呼ばれる膨大な量の情報が注目を浴びている。コンピュータの性能向上によって、あらゆる方面の大量のデータを用いた分析を行うことが可能となり、思わぬ考察や非常に緻密な分析が可能となった時代が到来したということでもある。データの蓄積量だけでなく、そのデータを扱い処理するための技術の進歩、そしてそれらのデータを使用する社会に変化が訪れている。その一例としてIoTの普及が挙げられる。このことについてDawn E. Holmesは「モノのインターネット(Internet of things, IoT)の技術が進歩するにつれて、私たちの世界はよりデータ駆動型になり続けている」と指摘している(3)。さらにデータの処理の面においても変化が見られる。GAFAの主導によって大幅に進展した科学技術、とくにAIやディープラーニングなどに代表される高度な情報処理メカニズムの発展である。

一見するとこれらの技術を大学の経営的側面からでは即座に用いることは困難であるように思えるが、教育の現場に導入することで教育の質の向上や学生のニーズを得られるなど、間接的には経営に影響を及ぼすといえる。すなわち、最先端技術の導入は既存のデータを活用するだけでなく、新しい視点からのデータの収集が可能になると考えられる。以上のことにより、今後の大学においてはこうした新しい技術の導入及び多様化・巨大化する情報への対応を行うことが重要になるのではないかと考える。

高まるIRの重要性

IRの目的は高田によるとIRの定義から「データに基づく大学経営の意思決定の支援」であり(4)、これはつまり大学自治に必要なデータの収集・整理・活用であると言い換えられる。一度IRから離れて大学自治の観点に立って考察をすると、大学の自治が求められているなかで、正確な自己評価を下すためにもデータを活用していくことが大切であると考えられる。効率性を求めることは大切ではあるが、行き過ぎた効率化は大学のあり方から考えて不適切であるという指摘もある。山辺は「大学は社会の一構成要素であるとともに、未来の社会の構成要素である市民・科学・政治・経済・文化・産業などの"揺り籠"である」と述べている(5)。しかし、行き過ぎた効率化を防止するための機能としてのIRも考えられ、こうした視点からもより一層データの有効活用が求められているのではないかと考えられる。

脚注

  1. 小林雅之・山田礼子『大学のIR:意思決定支援のための情報収集と分析』慶應義塾大学出版会、2016年.
  2. 前掲書.
  3. Dawn E. Holmes『ビッグデータ超入門』岩崎学 訳、東京化学同人、2020年.
  4. 高田栄一「IRの大学経営への戦略的活用」『大学の戦略的経営手法』第3章、岩崎保道 編、大学教育出版、2016年、p. 28.
  5. 山辺真人「大学の開放と連携」『21世紀の大学像を求めて』第II部第7章、日本科学者会議大学問題委員会 編、水曜社、2000年.

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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