日本語のヴォイス

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

ヴォイス(態)とは、同じ出来事を異なる視点から表現する文法的な仕組みである。日本語のヴォイスには受身・使役・自他動詞の対応などが含まれ、「誰の視点で出来事を語るか」を選択する機能を果たしている。本稿ではこれらの表現を体系的に整理する。

受身文: 出来事を受け手の視点から語る

受身文は、能動文で目的語や影響を受ける側にあたるものを主語に据えて、出来事を語り直す表現である。日本語の受身には大きく分けて3つの種類がある。

直接受身

直接受身は、能動文の目的語を主語にした受身文で、最も基本的な形である。

能動文「先生が学生を褒めた」→ 受身文「学生が先生褒められた

能動文の目的語「学生」が受身文の主語になり、能動文の主語「先生」は「に」で標示される。他動詞の目的語がそのまま受身の主語に転換される点が特徴的で、英語の受身文に近い構造をしている。

間接受身(迷惑の受身)

間接受身は日本語独特の受身で、直接的な動作の対象ではない人が、その出来事によって影響(多くの場合は迷惑)を受けることを表す。

「雨に降られた」は、雨が降るという出来事が話者に迷惑をもたらしたことを表す。「隣の人にたばこを吸われた」は、隣の人がたばこを吸ったことで話者が迷惑を受けたことを示す。「電車で足を踏まれた」も同様に、踏むという動作の影響を受けたことを表す。

間接受身は自動詞からも作れる点が特徴的である。「赤ちゃんに泣かれた」「友達に先に帰られた」のように、本来受身にならないはずの自動詞が受身形をとり、話者への影響を表現する。英語にはない構造であるため、学習者にとっては理解が難しい。

持ち主の受身

持ち主の受身は、所有物や身体部位に対する動作を、持ち主を主語にして表す受身である。

「弟がケーキを食べた」→「私は弟にケーキを食べられた

「誰かが私の足を踏んだ」→「私は足を踏まれた

所有物が影響を受けた場合に、その持ち主の視点で表現する点が特徴的である。

受身形の作り方

Iグループ動詞は語幹をア段に変えて「れる」をつける(書く→書かれる、読む→読まれる)。IIグループ動詞は語幹に「られる」をつける(食べる→食べられる、見る→見られる)。IIIグループは不規則(来る→来られる、する→される)である。

使役文: 行為をさせる・許す

使役文は、ある人物が他の人物に動作を行わせたり、行うことを許可したりすることを表す表現である。

強制の使役と許可の使役

使役には2つの基本的な意味がある。強制は「母が子どもに野菜を食べさせた」のように、相手の意志に関わらず行為を行わせることである。許可は「先生が学生を早く帰らせた」のように、相手が望んでいることを許すことである。文脈によってどちらの意味になるかが決まる。

使役形の作り方

Iグループ動詞は語幹をア段に変えて「せる」をつける(書く→書かせる、読む→読ませる)。IIグループ動詞は語幹に「させる」をつける(食べる→食べさせる、見る→見させる)。IIIグループは不規則(来る→来させる、する→させる)である。

使役文の助詞選択

使役文における被使役者(動作をさせられる人)の助詞は、もとの動詞が自動詞か他動詞かによって異なる。

自動詞の場合は被使役者を「を」で標示する。「母が子ども走らせた」「先生が学生立たせた」のように使う。

他動詞の場合は被使役者を「に」で標示する。「母が子ども野菜を食べさせた」「先生が学生本を読ませた」のように使う。他動詞の目的語がすでに「を」で標示されているため、被使役者には「に」を使って重複を避ける。

使役受身

使役と受身を組み合わせた「使役受身」は、「させられる」という形で、強制された側の視点から出来事を語る表現である。

「母が私に野菜を食べさせた」→「私は母に野菜を食べさせられた

「~させられた」は「嫌だったのにやらされた」という不満や迷惑のニュアンスを含むことが多い。「毎日3時間勉強させられた」「嫌いな食べ物を食べさせられた」などが典型的な用例である。

話し言葉ではIグループ動詞に限り「させられる」が「される」に短縮されることがある。「書かせられる→書かされる」「読ませられる→読まされる」のように変化するが、IIグループ動詞にはこの短縮は適用されない。

自動詞と他動詞: 日本語の視点選択の基盤

日本語には「開く(自動詞)/開ける(他動詞)」「閉まる/閉める」「壊れる/壊す」「消える/消す」「つく/つける」「始まる/始める」「止まる/止める」のような自他の対(ペア)が非常に豊富に存在する。これは英語などに比べて際立った特徴である。

自他の対の形態的パターン

自他動詞の対にはいくつかの形態的パターンがある。

-aru/-eru型: 「上がる/上げる」「下がる/下げる」「集まる/集める」「決まる/決める」のように、自動詞が-aru、他動詞が-eruで終わるパターン。

-u/-eru型: 「つく/つける」「届く/届ける」「育つ/育てる」のように、自動詞が-u、他動詞が-eruで終わるパターン。

-reru/-su型: 「壊れる/壊す」「汚れる/汚す」「倒れる/倒す」のように、自動詞が-reru、他動詞が-suで終わるパターン。

-eru/-asu型: 「出る/出す」「冷える/冷やす」のパターンもある。

視点選択としての自他動詞

自動詞と他動詞の選択は、話者がどの視点から出来事を語るかに直結する。「窓が開いた」(自動詞: 変化そのものに焦点)と「誰かが窓を開けた」(他動詞: 行為者に焦点)は、同じ出来事を異なる視点で語っている。

日本語では、行為者が明確でない場合や、行為者を前面に出す必要がない場合には、自動詞を使う傾向がある。「ドアが閉まった」は自然だが、「ドアが閉められた」は行為者の存在を暗示するため、やや不自然な場合がある。英語では受動態で表すような場面でも、日本語では自動詞で対応できることが多い。

自他動詞とアスペクトの組み合わせ

先の記事で触れた「ている」「てある」との組み合わせも重要である。

「ドアが開いている」(自動詞+ている): ドアが開いた状態の客観的な描写

「ドアが開けてある」(他動詞+てある): 誰かが意図的に開けた結果が残っている

「ドアを開けている」(他動詞+ている): 今まさに開ける動作を行っている

このように、自他動詞の選択とアスペクト表現の組み合わせによって、同じ状況を多角的に表現できるのが日本語の特徴である。

学習者にとっての課題

ヴォイスに関して学習者が直面する主な課題をまとめておく。

第一に、間接受身は多くの言語に存在しない概念であるため、その発想自体を理解するのが難しい。「雨に降られた」が「雨が降って迷惑だ」という意味になることは、母語にない発想として受け入れる必要がある。

第二に、使役文の助詞選択(自動詞なら「を」、他動詞なら「に」)は規則的ではあるものの、実際の運用では間違いやすい。

第三に、自他動詞の対は数が多く、どれが自動詞でどれが他動詞かを覚える必要がある。形態的パターンの知識は学習の助けになるが、例外も存在する。

第四に、受身・使役・自他動詞・アスペクトが複合的に絡み合う表現は、日本語の中でも最も複雑な領域のひとつである。段階的に理解を深めていくことが重要である。

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