日本語の文字と表記

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

日本語はアルファベット以外の文字を使用し、しかも3つの文字体系を併用する「漢字仮名混じり文」という世界的にも極めて特殊な表記法を持つ。本稿ではまず音声に関する重要な現象を確認したうえで、日本語の文字体系の全体像を概観する。

母音の無声化

母音は本来有声音だが、特定の環境では声帯振動を伴わずに発音されることがある。これが母音の無声化である。無声化しやすいのはイとウの2つで、主に2つの環境で生じる。

第一は無声子音に挟まれた環境で、「くさ」「きかい」「つくえ」などがこれにあたる。第二は無声子音のうしろで後続音がない環境で、「~です」「~ます」の語尾がその典型である。日本語の「です」「ます」が自然に聞こえるためには、語末のウの無声化が重要な役割を果たしている。

音素と異音: 「同じ音」の多様な姿

日本語話者が「同じ音」として認識しているものが、実際にはまったく異なる音として発音されていることがある。音韻論ではこれを「音素」と「異音」の関係として説明する。

代表的な例が撥音「ん」(音素/N/)である。日本語話者は「ん」を1つの音だと認識しているが、実際には後続音によって発音が大きく変化する。「さんま」では[m](両唇鼻音)、「せんたく」では[n](歯茎鼻音)、「きんにく」では[ɲ](歯茎硬口蓋鼻音)、「まんが」では[ŋ](軟口蓋鼻音)、「ほん」(語末)では[ɴ](口蓋垂鼻音)、「せんえん」(母音の前)では鼻母音となる。これらはすべて環境によって自動的に決まる「条件異音」であり、日本語話者は通常その違いを意識しない。

同様に「が行」の音素にも異音がある。語頭では[ga](軟口蓋破裂音: 「がっこう」「がくせい」)、語中では[ŋa](軟口蓋鼻音=鼻濁音: 「すがた」「かがく」)のように変化する。

ひらがなの成り立ち

ひらがなは漢字の草書体から発達した表音文字である。古代、日本語を書き表すために漢字の音を借りる「万葉仮名」が用いられていたが、やがて漢字の「意味」を捨てて「音」のみを表現する文字としてひらがなが生まれた。基本46文字から成り、現在では主に文法的な機能を担う部分(助詞、活用語尾など)に使用される。

カタカナの成り立ち

カタカナは漢字の一部を切り取って作られた表音文字である。万葉仮名やその略体を用いて、振り仮名や送り仮名として使用されたのが始まりとされる。例えば「ホ」は「呆」の下半分に由来し、さらにさかのぼれば「保」の旁を利用したものである。現在は主に外来語、擬声語・擬態語、専門用語、強調表現などに使用されている。

漢字の特徴と読みの複雑さ

漢字は表意文字として実質的な意味を担う部分に使用される。日本語の漢字には音読み訓読みがあり、音読みはさらに伝来時期によって呉音・漢音・唐音の3系統に分かれる。

さらに読み方の複雑さを増す要因として、複合語における特殊な読み方がある。重箱読みは音読み+訓読みの組み合わせ(例: 台所=ダイどころ)、湯桶読みは訓読み+音読みの組み合わせ(例: 雨具=あまグ)である。また熟字訓は漢字の組み合わせ全体に対して日本語の読みを当てたもので、「今日(きょう)」「明日(あす)」などがこれにあたる。

量的にも漢字学習の負担は大きい。常用漢字は2136字で、小学校で1026字(1年生の80字から6年生の191字まで段階的に配当)、中学校で残りの1110字を学ぶ。日本語教育では初級で約300字、中級で約700字、上級で約1000字が目安とされている。

六書: 漢字の成り立ちによる分類

漢字はその成り立ちによって6種に分類される。この「六書(りくしょ)」の知識は、漢字を体系的に理解するうえで有効である。

象形は物の形を写した文字で、「日」「月」が代表例である。指事は抽象的な概念を記号的に表し、「上」「下」がこれにあたる。会意は複数の既存文字を組み合わせて新しい意味を構成するものである。形声は意味を表す部分(意符)と音を表す部分(音符)の組み合わせで、漢字の大多数がこのパターンに属する。「河」「江」はいずれも水に関わる意符「氵」を共有しつつ異なる音符を持つ。転注は類似した意味を持つ文字間の関係(「考」と「老」)、仮借は音を借りて別の意味を表すものである。

唐欄による三分法では、これらを象形文字・象意文字(指事+会意)・象声文字(形声)の3つに整理することもできる。

現代仮名遣いの特徴

日本語の現代仮名遣いには歴史的仮名遣いの名残がいくつか残っている。

まず助詞の「へ」「は」「を」は表記と発音が一致しない。それぞれ「え」「わ」「お」と発音されるが、表記上は歴史的な形を保っている。

「四つ仮名」の問題もある。「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は現代語では同じ発音だが、原則として「じ」「ず」を用い、「ぢ」「づ」は同音の連呼(つづく)や二語の連合(鼻血=はなぢ)の場合にのみ使う。

長音の表記も独特である。え段の長音は「い」を添えて書き(「えいが」→実際の発音は「エーガ」)、お段の長音は「う」を添えて書く(「ぼうし」→「ボーシ」)。音と表記のこうした不一致は、学習者にとって大きな混乱の原因となる。

外来語の表記についても、文化庁の「外来語の表記」による標準化が試みられてはいるものの、「スマートフォン」と「スマートホン」のような揺れは今なお存在する。原音にどこまで忠実であるべきか、どこから日本語化してよいのかという問いは、容易には結論の出ない問題である。

学習者が直面する困難

日本語の文字体系は学習者に多くの困難をもたらす。まず同じ語に対して複数の表記が存在する場合がある(「日本」「ニッポン」「NIHON」、「コーヒー」「珈琲」)。意味やニュアンス、使用場面による使い分けが求められる点は、学習者にとって大きな壁である。

漢字に関しては、数の多さ、複数の読み方、筆順・画数・字形の複雑さ、そして単語になると読み方が変化する現象(「人」が「ひと」「じん」「にん」と変わるなど)が障壁となる。

こうした困難に対処するために、学習者の背景に応じたアプローチが求められる。中国語の簡体字や繁体字に慣れた漢字圏学習者と、アルファベット圏の非漢字圏学習者では、既有知識が大きく異なるためだ。指導の段階としては、基礎知識の理解、導入期、整理しながら増やす時期、そして自律的な学習時期へと進むのが一般的なアプローチとされている。部首の知識(へん・つくり・かんむり・あし・かまえ・たれ・にょう)や、音符による読み方の関連性を理解することが、体系的な漢字学習の基盤となる。

漢字学習をめぐっては「ひたすら暗記」「繰り返し書く」という方法が採られがちだが、それだけでは学習者に負の印象を与えてしまう可能性がある。形の美しさや文字に意味があることの面白さ、日本文化・歴史との結びつきなど、漢字の魅力を伝える指導が学習意欲の維持には重要である。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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