言葉のなかの見えない距離

「年上だから敬語を使う」。多くの人がそれを当然のルールとして受け入れている。だが、考えてみてほしい。ただ先に生まれたというだけの理由で、なぜ言葉の形式を変えなければならないのか。時間を長く過ごした人が必ず敬意に値するなら、何もせずに過ごした時間にも価値があることになる。

敬語は「尊敬の表現」だと教わる。しかし実際には、敬語はもう少し複雑な機能を担っている。

敬語は距離の調節装置である

日本語の敬語は、大きく5種類に分類される。尊敬語、謙譲語I(謙譲語)、謙譲語II(丁重語)、丁寧語、美化語。2007年の文化審議会答申以降、従来の3分類からこの5分類に整理された。

この分類を見れば分かるとおり、敬語は単に「相手を持ち上げる」ための装置ではない。自分を下げる表現、場を整える表現、言葉を美しく見せる表現が含まれている。つまり敬語の本質は、話し手と聞き手の距離を調整することにある。

ブラウンとレヴィンソンのポライトネス理論(1987)では、人は対面的なやりとりの中で相手の「フェイス(面子)」を脅かさないように振る舞うとされる。敬語はその最も体系化された道具の一つだ。「いらっしゃいますか」は尊敬の念から出てくるのではなく、「あなたの領域に踏み込みすぎないようにする」という距離の操作から出てくる。

敬語がある言語とない言語

英語には日本語のような文法化された敬語体系は存在しない。しかし、丁寧さのグラデーションはある。"Could you possibly..." と "Do this." では距離の取り方がまるで違う。韓国語は日本語と同様に体系的な敬語を持ち、年齢や社会的関係によって語尾が変わる。

世界はそこで終わっているで書いたように、言語が違えば、世界の切り分け方も変わる。敬語が文法として存在する言語の話者は、発話のたびに「相手との関係性」を意識させられる。それは制約であると同時に、関係を可視化する仕組みでもある。

年齢だけで敬意を払う合理性

「年上には敬語」というルールの根拠は何か。一つには、経験値への期待がある。長く生きた人はより多くの経験を持ち、そこから学んだ知恵がある、という前提だ。

だがこの前提は、反例に弱い。経験量と知恵は比例しない。同じ10年を過ごしても、そこから何を得るかは人によって大きく異なる。永遠の素振りで書いたように、時間の投下量そのものには本質的な価値はない。

もう一つの根拠は、社会秩序の維持だ。年齢による序列は、交渉や判断を省略できる便利な仕組みでもある。誰が先に話し、誰が先に座り、誰が先に食べるか。すべてを都度交渉していたら、集団生活は回らない。敬語はその省略のための道具でもある。

大学で敬語が問題になる場面

大学に入ると、敬語の使い方が急に複雑になる。教員へのメール、先輩との会話、アルバイト先での応対。それぞれで求められる距離感が違う。

特にメールは失敗が目立つ。「了解です」を教員に送ってしまう、件名がない、名乗らない。これらは敬語の問題というより、書き言葉における距離感の問題だ。話し言葉では表情や声のトーンが距離を調整してくれるが、文字にはそれがない。だから敬語の比重が上がる。

大学で友達の作り方にも関連するが、大学での人間関係は「敬語からタメ口への移行」という段階を含む。この移行のタイミングを読み間違えると、距離が縮まらないか、逆に馴れ馴れしいと思われる。

敬語を使う実利

敬語を「心からの尊敬」として使う必要はない。距離の調節装置として使えばいい。

「礼儀正しい人」というラベルは、それだけで信用を生む。初対面の人に対して適切な敬語を使える人は、「この人は場の空気を読める」という印象を与える。逆に言えば、敬語を崩すことは意図的なメッセージになる。「あなたとの距離を縮めたい」か、あるいは「あなたを対等以下に見ている」か。

敬語を崩すジレンマ

距離を縮めたいのに、敬語が壁になる。この経験は多くの人にあるはずだ。

敬語から「です・ます」に、そして「だ・である」に。この段階的な崩し方には、暗黙のプロトコルがある。だが、そのプロトコルは明文化されていない。だから失敗する。早すぎる崩しは無礼に見え、遅すぎる崩しは「いつまでも他人」という印象を残す。

格助詞と「は」、「が」で書いたように、日本語は微細な表現の違いが関係性を映し出す言語だ。敬語もまた、単なるマナーではなく、人と人との距離を言葉の中に刻み込む仕組みである。

まとめ

敬語は、尊敬の感情とは必ずしも一致しない。それは距離の調節装置であり、社会的な潤滑油であり、ときに壁にもなる。「なぜ年上に敬語を使うのか」という問いに、完全に合理的な答えはない。だが、敬語という装置が存在することで、私たちは相手との距離を言葉の中で操作できる。その便利さと窮屈さの両方を知っておくことが、敬語と付き合う最初の一歩になる。

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