図書館の役割、あるいはスタバについての論考

「図書館で勉強する」と言えば、誰も何も言わない。「スタバで勉強する」と言えば、一定数の人が眉をひそめる。

やっていることは同じだ。テキストを開き、ノートを広げ、何かを読んで何かを書く。場所が違うだけで、行為そのものは変わらない。なのに、片方は当然のこととして受け入れられ、もう片方は議論の種になる。

この非対称は、場所というものが単なる物理的な空間ではないことを示している。

場所には「脚本」がある

建物には、設計者が想定した使い方がある。図書館は本を保管し、閲覧するための施設として設計された。カフェはコーヒーを飲みながら会話を楽しむための場所として設計された。

しかし、人は設計者の意図通りには動かない。大学図書館の閲覧席を見れば明らかだ。蔵書を閲覧している学生よりも、持ち込んだ教科書で自習している学生のほうが圧倒的に多い。図書館は「本を借りる場所」から「静かに勉強する場所」へと、いつのまにか読み替えられている。

この変化には歴史的な背景がある。大学図書館は、1990年代以降、「ラーニングコモンズ」という概念のもとで機能を拡張してきた。従来の蔵書管理と閲覧提供に加え、グループ学習室、PC端末、さらにはカフェスペースまで備えた複合的な学習支援施設へと変貌した。図書館自身が、「本を読む場所」という脚本を書き換えたのだ。

一方、カフェにも似たような読み替えが起きている。ただし、カフェの場合は施設側が意図した変化ではない。客が勝手に脚本を書き換えた。

なぜカフェで集中できるのか

スタバで勉強する人に理由を聞くと、「なんとなく捗る」という答えが返ってくることが多い。この「なんとなく」には、認知科学的な根拠がある。

2012年、イリノイ大学のラヴィ・メータらは、Journal of Consumer Researchに発表した研究で、適度な環境音(約70デシベル)が創造的思考を促進することを示した。無音の環境よりも、カフェ程度のざわめきがあるほうが、抽象的な思考が活性化される。音がわずかに注意を分散させることで、通常の思考パターンから逸脱しやすくなり、結果として創造的な解が生まれやすくなるという。

ただし、この効果には限界がある。85デシベルを超えると、騒音は集中を妨げる方向に作用する。また、この研究が示したのは創造的課題における効果であり、暗記や計算といった収束的思考については、静かな環境のほうが有利だ。「カフェで勉強すると捗る」は、課題の種類によっては正しく、課題の種類によっては間違っている。

もう一つ、カフェで集中できる理由として見逃せないのが、他者の視線だ。周囲に人がいるという状況が、緩やかな自己規律として機能する。自宅なら5分でスマートフォンに手が伸びるところを、カフェでは人目があるぶん、もう少し我慢できる。授業の空きコマはなぜ無に溶けるのかで書いたように、自由な時間ほど溶けやすい。カフェという場所は、緩やかな拘束を提供することで、その溶解を防いでいる。

サードプレイスという補助線

社会学者レイ・オルデンバーグは、1989年の著書 The Great Good Place で「サードプレイス」という概念を提唱した。ファーストプレイス(自宅)でもセカンドプレイス(職場や学校)でもない、第三の居場所。カフェ、パブ、理髪店、広場。そこでは社会的な役割から一時的に解放され、フラットな関係の中でくつろぐことができる。

大学生にとって、図書館もカフェもサードプレイスとして機能しうる。自室の誘惑から逃れ、講義室の緊張からも離れた場所で、自分のペースで作業する。重要なのは、勉強しに行っているのではなく、「勉強できる場所に身を置きに行っている」という点だ。

しかし、図書館とカフェでは、サードプレイスとしての質が異なる。図書館は無料で、静かで、長時間の滞在に寛容だが、飲食は制限される。カフェはドリンク代という入場料がかかるが、コーヒーを飲みながら作業できる自由がある。どちらが優れているかではなく、どちらの制約が自分に合うかという問題だ。

場所を変えると捗る理由

「いつもと違う場所で勉強すると捗る」。これも「なんとなく」で片づけられがちだが、認知心理学はもう少し具体的な説明を用意している。

文脈依存記憶という現象がある。情報を符号化したときの環境と、想起するときの環境が一致していると、記憶の検索が容易になるという知見だ。1975年、ゴッデンとバデリーは、陸上で覚えた単語は陸上で、水中で覚えた単語は水中で、それぞれ思い出しやすいことを実験で示した。

この知見を裏返すと、常に同じ場所で勉強することには、その場所でしか想起できない記憶を作るリスクがある。試験は図書館でもカフェでもなく教室で行われる。だとすれば、複数の場所で学習することで文脈への依存を減らしておくほうが、汎用性の高い記憶が形成されると考えられる。

場所を変えること自体が新奇性を提供するという効果もある。脳は新しい環境に対してより多くの注意資源を配分する。いつもの自室では背景に溶け込んでいた刺激が、カフェや図書館では前景に浮かび上がる。この覚醒度の上昇が、作業開始時のハードルを下げる。集中力が最も高い時間帯の錯覚で触れた「作業興奮」と組み合わせれば、場所を変えるという行為は、始めるためのスイッチとして合理的に機能する。

場所は手段にすぎない

結局のところ、図書館で勉強してもスタバで勉強しても、身につく知識に場所の名前は刻まれない。

「スタバで勉強するのは意識高い系だ」という揶揄は、場所と行為の本質を取り違えている。重要なのは、どこで勉強するかではなく、勉強を始められるかどうかだ。自室で始められるなら自室でいい。カフェでしか始められないなら、ドリンク代は安い投資だ。図書館が近いなら図書館でいい。

場所の選択は、自分の弱さとの交渉にすぎない。静かさが必要な人は図書館へ行けばいい。適度な雑音が必要な人はカフェへ行けばいい。一人では始められない人は、友人と一緒に行けばいい。どれも正しい。

ただし、場所を変えること自体が目的化してはならない。「今日はどこで勉強しようか」と考えている時間は、勉強していない時間だ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu