Markdownで文献出典を扱う実用的な方法

Markdownで文章を書いていると、学術的な小論や技術記事など、ある程度の正確さを求められる文書で文献出典をどう扱うかという問題に直面する。Markdownの仕様には脚注や参考文献を管理する標準的な仕組みがなく、エディタごとの独自拡張に頼ると将来の移行時に困る。本稿では、プレーンテキストとしての可搬性を保ちながら文献出典を扱う方法を比較し、実用的な選択肢を検討する。

前提と要件

文献出典の記法に求められる性質は以下の通りである。

  • 可搬性: 特定のエディタやプラットフォームに依存しない。プレーンテキストとして意味が通じる
  • 執筆時の効率: 書いている途中で文献リストとの間を行き来する必要がない
  • 可読性: 出典の挿入が本文の読みやすさを大きく損なわない
  • 検索性: 後から特定の文献を参照している箇所を検索できる
  • 自己完結性: リンクや外部参照に依存せず、テキスト単体で出典情報が完結する

リンクベースの参照([[]] やハイパーリンク)は、リンク先が移動・消失すると出典情報そのものが失われるため、長期的な文書管理には不向きである。

主な方法の比較

インライン括弧方式(著者年スタイル)

本文中に著者名と出版年を括弧で挿入する方法である。APAやシカゴスタイルなどの学術引用規格に準拠しており、最も広く認知されている。

認知負荷理論によれば (Sweller 1988)、作業記憶の容量は限られている。

本文の流れを大きく妨げず、どの出典に基づく記述かが明確になる。ただし、括弧内の情報だけでは論文タイトルが分からないため、末尾に参考文献リストを別途用意する必要がある。

段落末尾集約方式

段落全体の出典を末尾にまとめて記載する方法である。

認知負荷理論によれば、作業記憶の容量は限られている。より近年の研究ではこの理論が実証されている。
[Sweller 1988; Kirschner et al. 2006; Clark 2010]

本文中に括弧が現れないため読みやすいが、どの記述がどの出典に対応するかが曖昧になるという欠点がある。厳密な引用が求められる場面には不向きである。

セクション末尾方式

セクションの末尾に出典をまとめる方法である。段落末尾集約方式をさらに粗い粒度にしたものといえる。カジュアルな技術記事やメモには適しているが、学術的な正確さは期待できない。

インライン完全記載方式

出典情報を括弧内にすべて書き込む方法である。

認知負荷理論によれば (Sweller, J. (1988). Cognitive load during problem solving. Cognitive Science, 12(1), 257-285)、作業記憶の容量は限られている。

自己完結性は最も高いが、本文の可読性を著しく損なう。

実用的な妥協案

上記の方法を踏まえると、実用上はインライン括弧方式を拡張し、著者年に加えて論文タイトルの一部も括弧内に含める方法がバランスがよい。

認知負荷理論によれば (Sweller 1988: Cognitive Load Theory)、作業記憶の容量は限られている。

この方法には以下の利点がある。

  • 著者年だけの場合と異なり、括弧内を見るだけで何の文献かが分かる
  • 完全記載方式ほど冗長にならず、本文の可読性を保てる
  • 執筆中に参考文献リストを参照する必要がない
  • プレーンテキストとして自己完結しており、エディタを問わず意味が通じる
  • 正式な参考文献リストが必要な場合は、末尾に追加すればよい

詳しさの度合いは文書の性質に応じて調整すればよい。個人的なメモであれば著者年のみで十分であり、公開する文書であればタイトルを含めた方が読者に親切である。いずれにしても、プレーンテキストの可搬性を維持するという原則に従えば、特定のツールやプラットフォームに縛られずに文献出典を扱うことができる。

Read more

暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu