ぼくと石ころ
道ばたの石ころと、ぼく。構成元素も、いずれ塵に還る運命も、たいして変わらない。それでもぼくは「違う」と言い張る。根拠はないのだが。
問いの在り処
道を歩いていて、ふと足元の石ころが目に入る。
灰色で、角が丸くて、誰にも拾われない。雨に濡れても乾いても、そこにある。ぼくが見ていようが見ていまいが、そこにある。
ぼくもそこにいる。心臓が動いていて、呼吸をしていて、何か考えている。石ころにはそれがない。だから、ぼくのほうが上位の存在だ。
......本当にそうだろうか。
「意識がある」ことが偉いというのは、意識の側の言い分にすぎないかもしれない。石ころはそんな序列に異議を唱えない。異議を唱えないのは、反論できないからではなく、そもそも序列という概念が石ころの存在様式には無関係だからかもしれない。
この記事は、「ぼくと石ころは何が違うのか」という素朴な問いを出発点にして、その「違い」がどこまで本当に成立するのかを、少しずつ剥がしていく試みになる。
同じ原子、違う配置
物理学の言葉で言えば、ぼくも石ころも原子の集まりだ。
石ころはケイ素や酸素、鉄やマグネシウムでできている。ぼくは炭素、水素、酸素、窒素、それに微量の金属。周期表の上では隣人のようなものだ。
違いは「配置」にある。ぼくの原子は、たまたまDNAやタンパク質やニューロンという構造に組み上がった。石ころの原子は、結晶格子の中で静かに並んでいる。ただそれだけの差が、「意識がある」と「意識がない」の境界を決めているらしい。しかしその境界は、境界のない砂の上を歩くで問うたように、砂山が砂山でなくなる一粒と同じくらい見つけようがない。
だが、配置の違いに意味を見出しているのは、配置された側の片方、つまりぼくだけだ。石ころは配置について何も思わない。思わないことが劣等だとする根拠は、配置の違い以外にない。論証が円を描いている。
もう少し踏み込むと、ぼくたちの体を構成する原子は数年ごとにほぼ入れ替わる。七年前のぼくと今のぼくは、物質的にはほとんど別の存在だ。石ころのほうがよほど安定している。「同一性」という観点では、石ころのほうが誠実な存在かもしれない。鏡の向こうにもう一人の私が立つという問いが、ここで静かに顔を出す。
石は世界を持たない
ハイデガーは1929年から30年にかけての講義『形而上学の根本諸概念』の中で、三つのテーゼを提示した。
- 石は世界を持たない(weltlos)
- 動物は世界に乏しい(weltarm)
- 人間は世界を形成する(weltbildend)
石はただそこに「ある」。周囲の環境に開かれていない。触れても応答しない。世界との関わりそのものが不在であるとハイデガーは述べた。動物は環境に対して開かれているが、存在そのものを問う能力を持たない。人間だけが、存在を問い、世界を意味あるものとして構成する。
この三区分は、一見すると人間の特権を証明しているように見える。しかし裏返すと、ぼくたちの不安定さの証明でもある。石ころは世界を持たないがゆえに、世界を失う恐怖もない。世界に乏しい動物は、退屈を知らない。世界を形成する人間だけが、その世界が無意味かもしれないという絶望を抱えることになる。
「世界を持つ」とは、「世界を失いうる」ということだ。石ころにはその脆さがない。
それに、この三区分を引いたのも人間だ。石ころに「おまえは世界を持たない」と宣告したのは、世界を形成する側の存在にほかならない。石ころの側からこの区分がどう見えるかは、原理的に問うことができない。問えないことを「ない」と同一視していいかどうか、それ自体が一つの哲学的判断だ。
石ころであるとはどのようなことか
トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」で、意識の核心に迫った。ある存在が意識を持つとは、その存在で「ある」ことが何かしらの「感じ」を伴うということだ。コウモリには超音波で世界を知覚する独自の経験がある。ぼくたちはそれを想像できるかもしれないが、「コウモリにとって」それがどんなものかを本当に知ることはできない。あなたには何も見えていないで触れたように、ぼくたち自身の知覚すら世界の忠実な写しではないのだから、石ころの内側について語る言葉はなおさら持ち合わせていない。
では、石ころで「ある」とはどのようなことか。
普通の直感では、「何でもない」が答えになる。石ころには神経系がない。信号を受け取る細胞もない。何かを感じる仕組みが物理的に存在しない。だから石ころであることには、何の「感じ」も伴わない。
ただ、この直感を支えているのは「意識には神経系が必要だ」という前提であり、この前提そのものが証明されているわけではない。ぼくたちは神経系を通じて意識にアクセスしているが、それが意識の唯一の実現手段である保証はどこにもない。
ここで、デイヴィッド・チャーマーズが提起した「意識のハードプロブレム」が現れる。脳の物理的プロセスがどのように「主観的経験」を生み出すのか。ニューロンの発火パターンと、チョコレートの味の「感じ」のあいだには、説明のギャップがある。物理的な記述をどれだけ精密にしても、「なぜそこに経験が伴うのか」という問いは残る。
このギャップが埋まらないかぎり、石ころに経験がないと断言する根拠もまた、完全ではない。三十七兆の欠片では足りないという汎心論の難問は、まさにこの境界の曖昧さを突いている。
盲目の意志、あるいは石ころの内側
ショーペンハウアーは、世界の内的本質を「意志」と呼んだ。
『意志と表象としての世界』の中で彼が述べたのは、意志は人間や動物に限定されないということだ。植物が光に向かって伸びること、磁石が鉄を引きつけること、石が地面に落ちること、これらすべての背後に同じ盲目的な意志が働いているとショーペンハウアーは考えた。意志は知性を持たない。目的を持たない。ただ、ある。
この見方に立てば、石ころの「内側」はまったくの空白ではない。石ころもまた、意志の客体化の一つの段階にすぎない。人間との違いは、意志が自己を認識するかどうかという程度の差であって、本質の差ではない。
もっとも、ショーペンハウアーにとって、意志を認識できることは祝福ではなかった。むしろ呪いだった。意志は盲目的に欲し続ける。人間はその欲望を自覚するがゆえに、苦しむ。石ころは欲望を自覚しない。したがって、苦しまない。
何をしても同じだったという快楽順応の問題が、ここで別の角度から響いてくる。ぼくたちは何かを達成しても元の地点に引き戻される。石ころは最初からその地点にいる。追いかけず、失望せず、ただある。
蹴られても怒らない
道ばたの石ころを蹴る。石ころは転がる。怒らない。悲しまない。恨まない。
ぼくを蹴ったら、ぼくは怒る。痛みを感じ、不正を感じ、報復を考えるかもしれない。感情があること、反応できること、それがぼくと石ころの決定的な違いだと、多くの人は思う。
でも、怒ることに何の意味があるのか。
怒りは生存に有利だったから進化的に保存された、と説明することはできる。しかし「生存に有利」であることに価値があるかどうかは、また別の問いだ。生き延びたところで、最終的にはぼくも石ころと同じ元素に分解される。怒りは、その過程を少しだけ遅らせるための反応にすぎないかもしれない。石ころは後悔もしない。どちらを選んでも振り返るのは、選択肢を認識できる者だけの呪いだ。
石ころは風化する。ぼくも老いる。プロセスは同じで、速度が違うだけだ。石ころはその速度を気にしない。ぼくは気にする。気にすることが「優れている」証拠だと言い張るのは、気にする側の都合だ。
石ころは退屈しない。退屈できることは特権なのか、呪いなのか。幸せを追う手がすべてを遠ざけるという逆説を思い出すと、感情を持つことの「コスト」が見えてくる。
名前のない完全さ
石ころは名前を持たない。
ぼくには名前がある。戸籍があり、番号が振られ、社会の中で識別される。名前があるから、ぼくは「誰か」でいられる。名前がなければ、ぼくはぼくでなくなる。
でも100年後、ぼくの名前を覚えている人はいない。200年後、ぼくが存在した痕跡はほぼ消えている。穴は開いたまま誰も埋めないという存在の根本的な不条理は、名前の有無に関係なく、すべてに等しく降りかかる。最後の人間が最後の木の前に立つとき、石ころの価値を問う者はもういない。しかし石ころはそれで何も困らない。
石ころは名前を持たないが、そのことで何も失っていない。名前を持つとは、失う名前を持つということだ。忘れられる名前を持つということだ。存在するものは何もなかったというメレオロジカル・ニヒリズムの立場に立てば、「石ころ」も「ぼく」も便宜的な区分にすぎず、本当に存在するのは配置のない単純者だけかもしれない。
石ころのほうが、その事実に対して誠実だ。名前を主張しない。境界を主張しない。ただ、元素の集合体として、静かにそこにいる。
偶然と偶然のあいだ
石ころがそこにあるのは偶然だ。火山活動や風化や河川の流れが、たまたまその形のその石を、その道のその場所に置いた。
ぼくがここにいるのも偶然だ。遺伝子の組み合わせ、受精のタイミング、生育環境、すべてが少しでも違っていたら、ぼくは存在しなかった。
二つの偶然のあいだに、序列はない。石ころの偶然がぼくの偶然より劣っている理由はない。ぼくの偶然が石ころの偶然より意味を持つ理由もない。どちらも、宇宙が特に意図せず産み落としたものだ。偽の記憶が真空から組み上がる朝が示唆するように、ぼくの存在が熱力学的ゆらぎの偶然の模様にすぎない可能性すらある。石ころとの序列は、ますます怪しい。
それでもぼくは、自分の偶然に意味を見出そうとする。意味を見出す能力があるから。しかしこの能力もまた偶然の産物だ。偶然が偶然に意味を付与する。その構造そのものに、意味はあるのだろうか。灯りが消えたことに気づかない部屋というフェーディング・クオリアの思考実験が暗示するのは、意味を感じる能力そのものが、気づかないうちに消滅しうるということだ。そのとき、ぼくは石ころになるのだろうか。それとも、最初から石ころだったのだろうか。
ぼくは石ころにはなれない
結局のところ、ぼくと石ころの違いは「ぼくがその違いを気にしている」という一点に集約されるのかもしれない。
石ころはぼくとの違いを気にしない。比較しない。劣等感も優越感もない。「存在とは何か」と問わない。問わないことで、何も失っていない。
ぼくは問う。問うことで、何かを得ているのだろうか。それとも、問うことそのものが、存在の余計な付属物なのだろうか。考えることしかできないで書いたように、「考える」ことは知性のうちでもっとも安価な部品かもしれない。石ころに欠けているのは、その安い部品だけだ。
ぼくは石ころにはなれない。意識を消すことはできない。問いを止めることもできない。石ころの静けさに憧れても、その静けさを「静けさ」として認識してしまう時点で、もう石ころではない。
道ばたの石ころは、明日もそこにある。ぼくは明日、別のことを考えている。どちらの在り方が正しいかを決める審判は、この宇宙のどこにもいない。