三十七兆の欠片では足りない

あなたの体は約37兆個の細胞でできている。そのひとつひとつに、ほんのわずかな「感じ」があるとしよう。痛みとも呼べない微かな何か。光とも呼べない微かな何か。では、その37兆の「微かな何か」を全部足したら、今あなたが見ているこの文字の白さ、画面の光、指先の温度、そして「これを読んでいる私がいる」という確信になるだろうか。

ならない。

少なくとも、なぜなるのか誰にも説明できない。これが結合問題(Combination Problem)と呼ばれる哲学的難問であり、意識を語るすべての試みが最終的にぶつかる壁のひとつだ。

壁の前の壁

意識にはすでに有名な難問がある。デイヴィッド・チャーマーズが1995年に定式化した「意識のハードプロブレム」。物質的な過程、つまりニューロンの発火や電気信号のやりとりが、なぜ「体験」を伴うのか。脳の中で起きていることを物理的にすべて記述できたとしても、そこに「赤の赤さ」や「痛みの痛さ」が生じる理由は説明されない。機能は説明できる。しかし「感じ」は説明できない。

これに対して、いくつかの立場がある。物理主義は、意識は物質の働きから生じると主張する。だが「なぜ生じるのか」には答えない。二元論は、心と物質は別の種類のものだと言う。だが別々のものがどうやって相互作用するのかが分からなくなる。

そこで第三の道として浮上したのが汎心論(panpsychism)だ。意識は物質に「あとから」生じるのではなく、物質の根本的な性質として最初から備わっている。クォークにも光子にも、何らかの微小な経験的性質がある。直感には激しく反する。だが論理的には、ハードプロブレムを回避するエレガントな構造を持っている。意識がどこから来るのかと問う必要がない。最初からそこにあるのだから。

しかし、ハードプロブレムを迂回したと思った瞬間、同程度に困難な別の問題が現れる。微小な意識が、どうやって統一的な「私の経験」になるのか。

足し算の不可能性

この問題を最初に明確に指摘したのは、ウィリアム・ジェイムズだった。1890年の『心理学原理』(The Principles of Psychology)のなかで、ジェイムズはこう論じている。感覚Aと感覚Bがそれぞれ存在するとして、その二つを「足す」ことで、AとBを同時に経験している第三の意識Cが生まれるわけではない。意識は合成できない。

百年以上前のこの指摘は、いまだに有効だ。ウィリアム・シーガーが1995年に「結合問題」として概念を整理し、チャーマーズが2016年の論文「The Combination Problem for Panpsychism」でさらに精緻化した。チャーマーズはこの問題を三つの下位問題に分解している。主体の結合問題(微小な主体たちがどうやってひとつの主体になるのか)、質の結合問題(微小な経験の質がどうやって人間的な経験の質になるのか)、構造の結合問題(微小な経験の構造がどうやって人間的な経験の構造に対応するのか)。

どれひとつとして、満足のいく回答は存在しない。

水素と酸素を混ぜても水にはならない。特定の条件のもとで特定の結合が起きてはじめて水になる。物理学はその結合のメカニズムを記述できる。だが意識の場合、「結合のメカニズム」がそもそも何を意味するのかすら分からない。物理的な相互作用は記述できる。ニューロンが発火し、信号が伝わり、ネットワークが同期する。だがその記述の中に「経験が統合される瞬間」は見当たらない。見当たらないというより、何を探せばいいのかが分からない。

指揮者のいないオーケストラ

オーケストラを想像してみるといい。ヴァイオリンが鳴り、チェロが鳴り、フルートが鳴り、ティンパニが鳴る。それぞれの楽器が音を出している。もし汎心論が正しいなら、それぞれの楽器には微小な「聴いている何か」がある。だが問題はこうだ。それらの音を「交響曲」として聴いているのは誰か。

指揮者がいる、と言いたくなるかもしれない。脳がその役割を果たしているのだと。だが脳もまたニューロンの集合だ。指揮者もまたオーケストラの一員でしかない。指揮者の中にさらに小さな指揮者がいて、その中にまたさらに小さな指揮者がいる。この無限後退は「どこが私」という問いの変奏でもある。「私」を構成する部品のどれが「私」なのかと問うとき、答えはどこにもない。テセウスの船が海に浮かんでいるように、「私」もまた部品の上に浮かんでいるだけかもしれない。

ジュリオ・トノーニの統合情報理論(Integrated Information Theory, IIT)は、この問いに対してひとつの計量的アプローチを提示する。トノーニはΦ(ファイ)という値を導入し、システムの情報統合度が高いほど意識が豊かだとする。Φがゼロのシステムには意識がなく、Φが高いシステムには意識がある。IITは汎心論と相性がよい。Φが非ゼロである限り、どんなに小さなシステムにも何らかの経験があることになるからだ。

だがこれは結合問題を解いているのか。それとも別の言語で書き直しているだけなのか。Φの値がどこかの閾値を超えたとき「統一的な意識」が生じるのだとすれば、その閾値はどこにあるのか。砂粒を一つずつ積み上げていって、どこから「砂山」になるのかという砂を数える問いとまったく同じ構造がここに現れる。線はどこにもなかったのかもしれない。

分裂する問い

受精卵を考えてみる。一つの細胞が二つに分裂し、四つになり、やがて37兆になる。もし各細胞に微小な意識があるのだとすれば、「一つの意識」はいつ生じたのだろうか。二つの細胞のときにはまだなかったのか。四つのときには。百のときには。それとも受精卵の段階ですでに「一つの意識」があったのか。だとすれば、分裂によって意識は増えたのか、分かれたのか、それとも何も変わらなかったのか。

ここでもまた、問いは境界の問題に帰着する。そしてその境界は、どこにも引けない。

逆方向の問いもある。もしニューラルネットワークの各ノードに微小な意識があるとしたら、大規模言語モデルは意識を持つのだろうか。数十億のパラメータが結合し、入力に応じて出力を返す。その過程に「感じ」はあるのか。トノーニ自身は、フィードフォワード型のネットワークにはΦが低いため意識はないと主張する。だがこれもまた、閾値の問題に戻ってしまう。

人間の脳もまた、ニューロンのネットワークだ。そのネットワークが十分に複雑であれば意識が「生じる」のだとすれば、それは汎心論の主張とどう違うのか。汎心論は意識を物質に内在させることでハードプロブレムを避けた。だが「内在している意識がどう統合されるか」という問いには、物理主義の「意識がどう生じるか」と同程度の沈黙しか返ってこない。

解けない理由についての推測

なぜ結合問題は解けないのか。一つの可能性は、私たちの概念装置そのものが、この種の問いを扱うようにできていないということだ。「部分」と「全体」、「構成」と「統合」、「内側」と「外側」。これらの概念は物理的な対象を記述するために進化してきた。石を積み上げれば壁になる。部品を組み合わせればエンジンになる。だが意識に同じ論理を適用しようとすると、フィリップ・ゴフが『ガリレオの誤り』(Galileo's Error, 2019)で指摘したように、そもそもの枠組みが合わないのかもしれない。

ゴフは、ガリレオが自然哲学から質的な性質(色、音、味)を追放し、量的な記述だけを科学の言語としたことが、意識の問題を原理的に解けなくした起源だと論じる。科学の言語は量を扱う。だが意識は質だ。量の言語で質を記述しようとすること自体が、カテゴリーエラーなのかもしれない。

もしそうだとすれば、結合問題は「まだ解けていない」のではなく、「現在の概念枠組みでは原理的に定式化すらできない」ということになる。問いの形をしているが、問いとして成立していない。あるいは、問いとしては成立しているが、答えを受け取る言語が存在しない。

何も確かではない。それは知識論の問題だけではなく、意識を語ろうとするすべての試みに伏流している前提なのかもしれない。

他者の意識、あるいは不在

結合問題は「私の意識」の統一性についての問題だが、ここから自然に派生する問いがある。他者の意識は存在するのか。あなたは私を知りうるか。あるいはあなたはそこにいるのか。

私の37兆の細胞の意識がどうやって結合して「私」になるのかが分からないとすれば、あなたの37兆の細胞の意識が結合して「あなた」になっているのかどうかも、原理的には分からない。外側から観察できるのは行動だけだ。行動から意識を推定することはできても、確認することはできない。

汎心論は一見、この問題を緩和するように見える。すべてに意識があるのだから、他者にも当然意識がある。だが結合問題を考慮すると、話はそう単純ではない。すべてに微小な意識があるとしても、それが「統一的な経験をしている誰か」として結合しているかどうかは別の問題だ。あなたの体を構成する原子たちがそれぞれ微小に「感じて」いるとしても、それらが「あなた」として統合されているかどうかは、外からは分からない。内からすら、分からないのかもしれない。

私は組み立てられない

チャーマーズはハードプロブレムを提起したとき、意識の問題が「イージープロブレム」(機能的な説明で解決できる問題)と「ハードプロブレム」(なぜ体験が伴うのかという問題)に分かれることを示した。結合問題は、そのハードプロブレムの双子のようなものだ。ハードプロブレムが「なぜ意識があるのか」と問うなら、結合問題は「なぜこの意識なのか」と問う。

汎心論は「なぜ意識があるのか」に対して「最初からあるからだ」と答えた。だが「なぜこの意識なのか」に対しては、同じ沈黙を返す。夢の中で目を覚ましたと思っても、まだ覚めていないことがあるように、一つの問いを解いたと思ったとき、その解の中に次の問いが折り畳まれている。

あなたの意識は、原子の意識の総和ではない。だが原子の意識の総和でないなら、何なのか。この問いに対して私たちが持っている言葉は、まだ発明されていない。あるいは、発明されることがないのかもしれない。

37兆の細胞がそれぞれ微かに「感じて」いる。そしてその37兆の「感じ」の上に、あなたはいる。なぜあなたがいるのかは、誰にも分からない。分からないまま、あなたはこの文章を読み終える。読み終えたあなたは、読み始めたあなたと同じあなただろうか。それすらも、分からない。

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