比喩の美しさと危うさ

私の尊敬する書き手たちは、比喩を魔法のように使いこなす。たった一つの比喩が、長い説明よりも正確に、読者の胸に像を結ぶ。そういう文章に出会うたびに、自分もこんなふうに書けたらと思わずにはいられない。

近年、誰もが自由に書ける環境が整い、エッセイの書き方やレトリックのテクニックについて語られる機会も増えた。比喩のコツをまとめた記事だって珍しくない。しかし比喩というのは、テクニックの枠に収まりきらないものだと思う。もっと根の深い、もっと本質的な何かが関わっている。

比喩が成立するための前提

比喩が伝わるためには、書き手と読み手が前提を共有していなければならない。

平成生まれの人に昭和の日常感覚を使った比喩を持ち出しても伝わらない。これは世代間の知識差の問題のように見えるが、本質はもっと広い。比喩は、共有された経験や知識の土台がなければ機能しない。

学術論文やIR資料に比喩がほとんど登場しないのは、この共有を保証できないからだ。多様な読み手を想定する場面では、比喩は正確な伝達を妨げるリスクになる。逆にいえば、比喩が真に力を発揮するのは、書き手と読み手のあいだに豊かな共通基盤があるときに限られる。

事実を並べても意味は生まれない

通学路の電柱の本数。道端の石ころの数。いくら事実を精密に並べても、そこから「意味」は自動的には立ち上がらない。では事実を美しく修飾すればよいかといえば、問題の力点はそこにもない。

哲学者ジョン・サールは発話行為論において、文の字義通りの意味と話し手が実際に伝えようとしている意味が乖離しうることを体系的に論じた。とりわけ比喩について、サールは『Expression and Meaning』の中で、話し手が「SはPである」と述べながら実際には「SはRである」を意味する構造を分析している。聞き手が字義的意味から話者意味へとたどり着くには、背景知識と文脈に基づく推論が不可欠である。

つまり比喩とは、「~のような」の空欄にそれらしい語を当てはめる穴埋め作業ではない。物事をどう捉えているか、何を伝えたいのか、そして読み手がどこまでの文脈を共有しているかを見極める行為なのだ。

ただし、ここで注意しておきたいことがある。「正しい理解」や「あるべき主張」がどこかに前もって存在していて、比喩はそれを忠実に届ける手段にすぎない、と言いたいわけではない。何を理解し何を伝えるかということ自体が確定していないからこそ、比喩は難しいのだ。

比喩が壊れるとき

(自己言及的でなんだか釈然としないが、ほかにアイデアもないので)例を使って考えよう。

足し算を子どもに教えるとする。リンゴが1個、もう1個、合わせて2個。直観的で、何も問題はない。

ところが、同じ足し算を水で説明しようとするとどうなるか。コップ1杯の水と、もう1杯。大きなコップに注ぐと、やっぱり1杯になる。

これは算数の誤りではない。リンゴの比喩が暗黙のうちに前提としていた構造、すなわち「対象が離散的で、合わせても個体性を保つ」という性質が、水には当てはまらないのだ。比喩は常に、元の対象の一部の性質だけを切り取って別の対象に投影する。その切り取りが適切かどうかは、書き手が対象をどれだけ正確に理解しているかにかかっている。

どの学問領域でも、虚数や観念のように高度に抽象的な概念を扱う局面はある。そうした抽象の世界では、比喩はせいぜい理解への入口にすぎず、概念操作そのものにとっては不要であるか、ときに障害にすらなる。

言葉にした瞬間、経験は変質する

哲学者アンリ・ベルクソンは「純粋持続」の概念を通じて、生きた経験が言語や知性で把握されるとき不可避的に変質することを指摘した。経験の連続的で質的な流れは、言葉にしようとした瞬間に分節され、空間的に切り分けられ、元とは異なるものになってしまう。

(かなり無理矢理だが、)この洞察は比喩という営みそのものに重くのしかかる。ある体験を比喩で伝えようとする行為自体が、元の体験を別のものに置き換えてしまう。「いい比喩を思いついた」と感じたとしても、それが対象の本質を忠実に捉えている保証はどこにもない。言語化の過程で何かが失われることが避けられないのだとすれば、比喩の「うまさ」は常に懐疑の目にさらされるべきものだ。

それでも比喩は思考の土台にある

ここまで比喩の危うさを述べてきたが、では比喩を避ければよいのかというと、話はそう単純ではない。

認知言語学者ジョージ・レイコフと哲学者マーク・ジョンソンは『Metaphors We Live By』において、比喩が単なる言葉の装飾ではなく、人間の概念体系そのものを構造化していると論じた。

「議論は戦争である」、「時間は資源である」といった概念的メタファーは、単にそう表現しているのではなく、私たちがそう思考しているのだ。議論で「相手の主張を攻撃する」、「自分の立場を守る」と言うとき、私たちは戦争の枠組みを通じて議論という現象そのものを理解している。

比喩が認知の根幹にあるということは、比喩から完全に逃れることはできないということでもある。私たちは常にすでに何らかの比喩的枠組みの中で世界を捉えている。だからこそ、自分がどんな比喩を通して物事を見ているのかを自覚することには意味がある。

おわりに

比喩は、事実の羅列では届かない場所に読者を連れていく力を持っている。しかしその力は、書き手の理解の深さと、読み手との共通基盤の上にしか成り立たない。

前提を共有しない比喩は誤解を生む。対象を理解しないまま放つ比喩は本質を歪める。そして、言語化という行為そのものが経験を変質させる以上、どんな比喩にも根本的な限界がある。

それでも、比喩にしか到達できない認識がある。比喩を使うとは、美しい表現を思いつくことではなく、世界をどう捉え、何を伝えたいのかという問いに向き合うことだ。それは比喩に限らず、言葉を使うすべての営みに通じるものだと思う。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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