善意が静かに擦り減る場所で

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「いい人ほど損をする」。SNSを開けば毎日のように流れてくるこの言説は、共感を集めやすい。誰しも「自分は頑張っているのに報われない」と感じた経験があるからだ。

だが、この言い方は雑すぎる。「いい人」とは何か。「搾取」とは何か。この2つの定義が曖昧なまま、結論だけが流通している。

「搾取」の定義を分ける

まず「搾取」という言葉を分解する必要がある。

マルクス的な意味での搾取は、労働者が生み出した価値の一部を資本家が取得する構造を指す。ここでの搾取は個人の性格とは無関係で、構造そのものに組み込まれている。バイトで時給以上の価値を生み出していても、それはバイトである以上、構造的に当然のことだ。

心理学的な意味での搾取、いわゆる情緒的搾取は、一方が他方の感情を際限なく消費する関係を指す。友人の愚痴を毎晩3時間聞かされる。恋人の機嫌を常に伺い続ける。これは対等な関係における資源の不均衡だ。

そして日常語としての「搾取」は、「なんか割に合わない」という感覚のことを指していることが多い。

この3つは全く別の現象なのに、「搾取される」という一言にまとめられてしまう。

状況別に何が起きているか

大学生活において「いい人が搾取される」と言われる場面を分解してみる。

バイト。 シフトを代わってほしいと頼まれて断れない。これは「いい人」だから搾取されているのか。必ずしもそうではない。シフトを断ったときのコストが高いのだ。人間関係が悪化する、次に自分が困ったとき助けてもらえなくなる、という予測が「いいよ」と言わせている。つまり、断れないのは性格ではなく、断るコストの計算結果だ。

サークル。 雑用がいつも同じ人に集中する。会計、連絡、予約、買い出し。これは「いい人」に集中するのではなく、「最初にやった人」に集中する。一度やると「あの人がやってくれる」という期待が形成され、以降はその期待を裏切ることが難しくなる。経路依存性の問題だ。

恋愛。 一方的に感情労働を負担する関係。相手の機嫌を取り、相手の話を聞き、相手の不安を受け止める。これは搾取なのか。関係の初期にはこの不均衡が「優しさ」として評価される。だが時間が経つと、同じ行動が「当然のこと」に変わる。評価が消えた後も行動だけが残る。

研究室。 教授の雑務を引き受ける。資料のコピー、データの整理、学会の手配。これは権力勾配のある関係における服従であり、「いい人」かどうかとは関係がない。断ったときの不利益が明確すぎるのだ。

「いい人」を分解する

次に「いい人」の側を分解する。

「いい人」と呼ばれる人たちの中には、少なくとも3つの異なる特性が混在している。

協調性が高い人。 集団の調和を重視し、対立を避ける傾向がある。心理学のBig Fiveにおける「協調性(Agreeableness)」が高い人だ。この人たちは「いい人」に見えるが、自分の意思で協調を選んでいる場合も多い。

NOと言えない人。 断ることへの恐怖が強い。嫌われることへの不安が、自分の負担よりも大きい。これは協調性とは別の特性で、回避的な対人スタイルに近い。

承認欲求が強い人。 他人から「いい人だね」と言われることが報酬になっている。頼まれごとを引き受けることで承認を得ている。この場合、搾取されているというよりも、承認と労力を交換している。

この3つは全て「いい人」と呼ばれるが、メカニズムが全く違う。したがって「いい人をやめろ」というアドバイスは、どの「いい人」に対して言っているのかで意味が変わる。

構造を個人に還元する問題

「いい人ほど搾取される」という言説の最大の問題は、構造の問題を個人の性格に還元していることだ。

バイトのシフトが断りにくいのは、シフト管理の構造が「断りにくさ」を前提に設計されているからだ。サークルの雑用が特定の人に集中するのは、タスクの分配ルールがないからだ。研究室で教授の雑務を断れないのは、権力の非対称性があるからだ。

これらの問題に対して「いい人をやめろ」「境界線を引け」というアドバイスは、構造を変えずに個人の行動だけを変えようとしている。境界線を引けない状況がある。引いたら不利益を被る状況がある。その状況自体を分析しないまま、「引けないあなたが悪い」と言うのは、構造の問題を個人に転嫁しているだけだ。

「搾取されている」と感じることの意味

ただし、ひとつ注意すべきことがある。

「搾取されている」と感じることと、実際に搾取されていることは、必ずしも一致しない。同じ状況でも、ある人は「搾取されている」と感じ、別の人は感じない。この差は、状況の客観的な不公平さだけでなく、本人の期待値に依存する。「自分はもっと評価されるべきだ」という期待が高いほど、同じ状況を「搾取」と感じやすくなる。

これは搾取を感じる側が間違っているという話ではない。ただ、「搾取されている」という感覚を分析するときには、状況の構造と本人の期待値の両方を見る必要がある、ということだ。

対策ではなく理解

この記事では対策を書かない。「こうすれば搾取されなくなります」というアドバイスは、ここまでの分析と矛盾するからだ。構造の問題を個人の行動変容で解決しようとすること自体が、この言説の雑さの原因だった。

代わりに提示したいのは、「自分が何に不満を感じているのかを正確に把握すること」の価値だ。バイトのシフトが不満なのか、断れない自分が不満なのか、断ったときのコストが不満なのか。それぞれで取るべきアプローチは全く違う。

「いい人ほど搾取される」という雑な言説は、この区別を全て潰してしまう。だからこそ、分解する意味がある。

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