集中力が最も高い時間帯の錯覚

「朝5時に起きてから午前中に最も重要な仕事を片付ける」。自己啓発の世界では、これがほとんど教義のように語られている。

一方で、「自分は夜型だから深夜に集中する」と信じている人もいる。午前2時のキーボードの音だけが響く部屋で、日中にはない冴えを感じると。

どちらも、半分正しくて半分間違っている。

クロノタイプという個人差

人間の体内時計には、生まれつきの個人差がある。「クロノタイプ」と呼ばれるこの傾向は、体質的に朝に活動のピークが来る人と、夜にピークが来る人を区別するものだ。

これは怠惰や努力の問題ではない。遺伝的・生理的な基盤を持つ生物学的な特性だ。思春期には夜型傾向が強まり、加齢とともに朝型に移行する傾向があることも知られている。つまり、大学生の多くが夜型に傾くのは、生活習慣の問題であると同時に、年齢に伴う生物学的な傾向でもある。

東京医科大学の研究グループが約1万人を対象に行った調査では、クロノタイプそのものは直接的に生産性を低下させないことが示されている。しかし、自分のクロノタイプに合わない時間帯に活動を強いられると、睡眠の質が低下し、それを介して生産性が落ちる。朝型の人が夜更かしすること、夜型の人が早起きすること。どちらも、体内時計と生活時間のずれを生み、パフォーマンスを損なう。

「朝型だから生産性が高い」のではない。朝型の社会に朝型の人が適応しやすいだけだ。夜型の人が同じ環境に置かれれば、体内時計との不一致によって不利になる。集中力の高さは時間帯そのものではなく、自分のリズムとの一致度に依存している。

体感の嘘

ここで、もう一つ厄介な問題がある。「集中できた」と感じる時間帯と、実際に集中していた時間帯は、必ずしも一致しない。

深夜にプログラミングをしていて、気がつけば3時間が経っていた。すごい集中力だったと感じる。しかし翌日にコードを見返すと、バグだらけだったりする。逆に、午前中に嫌々始めた作業が、思ったより効率的に進んでいたことに後から気づくこともある。

この体感と実際の乖離には、いくつかの要因がある。

まず、深夜の「集中感」は、前頭前皮質の機能低下と関係している可能性がある。判断力や自己監視の能力が低下するため、没入感は増すが、成果物の質は落ちることがある。酔っているときに自分が饒舌で面白いと感じる現象と、構造的には似ている。

また、新奇性の影響もある。深夜という非日常的な環境が刺激となり、体感上の覚醒度が上がる。しかし、覚醒感と認知パフォーマンスは別の指標だ。

記憶のフィルタ

さらに、記憶のフィルタが加わる。

深夜に良い成果が出た経験は、鮮やかに記憶に残る。「あの夜は神がかっていた」。しかし、深夜に何も捗らなかった夜は記憶から消える。朝にだらだら過ごした日は覚えているが、朝に順調に進んだ日は特に印象に残らない。

これは生存者バイアスの一種だ。成功体験だけが記憶に残り、失敗体験が消えることで、特定の時間帯が特別に優れていたという錯覚が生まれる。

誰も学びを測れないで書いたように、人は複雑な現象を単一の指標に圧縮したがる。「自分は夜型だ」、「朝が一番集中できる」という自己認識は、複雑で流動的な集中力のパターンを、単純なラベルに圧縮したものにすぎない。実際の集中力は、時間帯だけでなく、睡眠の質、食事、気分、課題の性質、環境など、無数の要因に左右されている。

始められるかどうか

ここで、一つ提案がある。

「いつ集中できるか」よりも、「いつ始められるか」のほうが、実用的にはよほど重要ではないだろうか。

集中力のピークがいつ来るかを正確に特定できたとしても、その時間帯に作業を始められなければ意味がない。そして多くの場合、最大の障壁はピークの時間帯を見つけることではなく、そもそも作業を開始することだ。

始めてしまえば、ある程度の集中は自然に生まれる。心理学で「作業興奮」と呼ばれる現象がある。やる気がないまま始めた作業でも、続けるうちに脳が活性化し、集中状態に入っていく。集中力は、作業の前提条件ではなく、作業の副産物でもある。

つまり、「最も集中できる時間帯」を探し続けること自体が、始めることの先延ばしになっている可能性がある。完璧なタイミングを待つ間に、不完全なタイミングで始めた作業はとっくに終わっている。

朝活ブームへの一つの疑問

近年の「朝活」ブームについて、一つだけ疑問を呈しておきたい。

朝早く起きること自体に価値があるかのように語られることがある。5時起きの習慣、朝のルーティン、早朝の静けさのなかでの作業。確かに、朝型の人にとってはこれが最適な戦略かもしれない。

しかし、夜型の人が無理に朝型の生活を送った場合、研究が示すように、睡眠の質が低下し、結果的にパフォーマンスが落ちる。「朝早く起きること」が目的化し、それ自体を達成感の源泉にしてしまっては本末転倒だ。暇が怖いだけで書いた「生産性への信仰」は、朝活にもその影を落としている。生産的であろうとする強迫が、また一つ新しい形の忙しさを生んでいる。

大切なのは、何時に起きるかではない。起きている時間をどう使うかだ。

結局のところ

集中力が最も高い時間帯は、おそらく人によって違う。そして同じ人でも、日によって違う。昨日の最高の時間帯が、今日の最高の時間帯である保証はどこにもない。

確かなのは、「いつ集中できるか」を考えている時間は、集中していない時間だということだ。

今、この瞬間が最適かどうかはわからない。わからないまま、とりあえず始めてみる。それが、おそらく最も確実な方法だ。

Read more

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu