場所はどのようにつくられるのか
「場所」を問い直す
朝、寝室で目を覚まし、食堂で朝食をとり、学校や職場へ向かう。帰りにスーパーへ寄り、家に戻る。私たちは毎日「場所」を舞台にして暮らしているが、場所そのものについて考えることはほとんどない。
森正人『誰が場所をつくるのか』(新曜社、2024年)は、その当たり前の「場所」を問い直す一冊である。副題に「ポストヒューマニズム的試論」と掲げられた本書によれば、場所は最初から存在する自明の所与ではなく、特定の時空間において人間と「人間あらざるもの」の相互作用によって構成される動的な過程である。場所論は人文地理学の中心的な主題であり、1970年代以降さまざまな理論的展開を経てきた。本書はその展開を丹念にたどりながら、近年のポスト人間中心主義の思潮を取り込んで場所概念の刷新を試みている。
本稿では、まず本書の議論を整理したうえで、理論的な観点から二つの問題点を指摘する。第一に、社会的構築主義とポスト人間中心主義の間に存在する緊張関係について。第二に、「場所はつねに変化し続ける過程である」という本書の中心的主張の理論的地位について。
場所論の思想史的系譜
場所は西洋哲学においてプラトンやアリストテレス以来論じられてきた。プラトンは『ティマイオス』において場所を「コーラー」と「トポス」という概念で捉え、コーラーを「生成するすべてのものに座を提供する」一種の容れ物として、トポスをそのなかの小規模な場所として論じた。アリストテレスはあらゆるものが存在するための基礎として場所を位置づけた。何かが存在するためには、それがどこかになければならない。場所は必然的に存在の根拠を提供する。
しかし、その後の西洋思想において場所が真正面から取り上げられることは稀であった。ミシェル・フーコーが指摘したように、近代の思想では空間は「死んで硬直したもの」とみなされ、時間こそが「豊かで実り多く、生きいきとし、弁証法的なもの」として特権化されてきた。場所もまた、変化に乏しい静的なものとして扱われる傾向にあった。
場所をめぐる哲学的思索が再び動き出すのは、マルティン・ハイデガーを待たねばならなかった。ハイデガーの思想において、現存在にとって「存在するもの」は道具として現れ、道具は何か別のものとの連関において意味を持ち、特定の「場」を持つ。場所は存在の仕方そのものと結びつけられた。さらにガストン・バシュラールは『空間の詩学』において、記憶が時間ではなく場所に位置づけられるものだと論じ、家屋の垂直的関係によって意識と無意識の空間を読み解く「トポアナリシス」を提示した。
人間主義地理学と場所の発見
場所が人文地理学において本格的に注目されるようになるのは、1970年代の人間主義地理学においてである。それ以前の地理学では、場所は地表面上の「地点」や「位置」にすぎなかった。1950年代から60年代にかけての計量革命は、数理科学的な手法で空間を幾何学的抽象物として扱い、場所は空間プロセスの結節点として捉えられていた。
人間主義地理学は、こうした実証主義的な地理学が人間の主観性や経験を十分に扱っていないと批判し、現象学や実存主義の哲学を参照しながら場所を論じた。イーフー・トゥアンは、自然環境や場所と人間との情緒的なつながりを「場所愛(topophilia)」という概念で捉えた。トゥアンにとって、場所は安定した諸価値の中心であり、抽象的な空間とは対照的に、人間の帰属意識や愛着と結びつくものであった。
エドワード・レルフはハイデガーの哲学に依拠しながら「場所性」を論じた。レルフによれば、場所の本質は「場所を人間存在の奥深い中心と規定しているほとんど無意識的な意識の志向性」に存在する。場所は単なる空間上の位置ではなく、人間の存在そのものに組み込まれたものなのである。デヴィッド・シーモンはさらに、メルロ=ポンティの身体論を援用し、郵便受けまで歩く、車で帰宅する、引き出しからハサミを取るといった習慣化された身体的移動が、場所の感覚を生み出すと論じた。
しかし人間主義地理学には限界があった。場所を自明のものとして扱い、場所がどのような権力関係のなかで構築されるかという問いを十分に展開しなかったのである。場所愛の時間的変遷もあまり考慮されていなかった。
場所の社会的構築
マルクス主義地理学は、人間主義地理学の限界を乗り越えようとした。デヴィッド・ハーヴェイは、場所を社会的構築物として捉える立場を鮮明に打ち出した。彼にとって唯一興味深い問いとは「どのような社会的過程によって場所が構築されるのか」であった。場所の物質的な構造そのものが社会の産物であり、建物、公園、道路、レストランは利益を生み出すために建設されてきた。
ここで時間地理学の貢献にも触れておきたい。トルシュテン・ヘーゲルシュトランドが提唱した時間地理学は、人間の活動の時空間的展開を「パス」として図式化し、職場や学校や店舗といった「バンドル」が人間の活動を一定の時間と場所に集合させる制約であることを示した。アラン・プレッドはこの時間地理学と構造化理論を統合し、場所が「歴史的に偶有的な過程」であると論じた。特定の時間に、特定の空間で、特定の権力関係のもとに、因果的でも予定調和でもない独自の場所がつくられる。そしてその場所は権力関係の単なる結果ではなく、体系そのものを更新する作用をも持つ。
しかしハーヴェイの議論には問題もあった。場所をつくる要因を資本主義に一元化する経済決定論的な傾向である。ドリーン・マッシーはこの限界を鋭く批判した。マッシーによれば、場所は資本主義のみならず家父長制や人種主義など複数の権力関係によって重層的に構成される。
マッシーの分析は具体的である。イギリスにおける産業立地パターンの変化を検討し、ミッドランド地方からウェールズやスコットランドへと鉄鉱や石炭の採掘が移動した背景に労働組合組織の発達度の差があること、ダラムの石炭採掘地で男性中心主義が産業を支えていたこと、ノーザンプトンの製靴産業がヴィクトリア朝の性別規範や年齢分業といった「道徳」によって後押しされていたことを明らかにした。こうした複雑な権力作用を彼女は「権力幾何学」と呼んだ。幾何学とは、古代ギリシアに遡る大地の測量と設計の技術であり、ここでは資本主義に限定されない多様な権力が空間を設計し、社会のありようを規定していく作用を意味する。
マッシーが提唱した「先進的な場所感覚」は、場所を動的なプロセスとして捉え、境界の多孔性と開放性を強調するものである。彼女の主張は四つの論点に集約される。動的なプロセスとしての場所、外と内の境界設定が不可能な多孔的な場所、単一のアイデンティティを持たない場所、そして開かれた広範な諸関係によって再生産される場所の種別性。場所は固定された実体ではなく、さまざまな人と事物の「物語」が特定の権力幾何学において交差し、節合することで生成する「出来事」なのである。
ポスト人間中心主義への展開
本書の最も野心的な試みは、ポスト人間中心主義の観点から場所論を再検討する第三部にある。森は、場所を構成するのは人間だけではなく、動物、植物、微生物、さらには石や水といった無生物も含まれると主張する。これら「人間あらざるもの」もまた行為主体性を持ち、人間とともに場所を構成する。
森はフットボールの試合を例に挙げる。ゲームが始まると、プレイヤーはボールの動きに合わせて判断とプレーを修正する。ボールの動きはグラウンドや天候の状態にも左右される。人間の理性による活動だけではなく、ボールや自然条件といった無生物の「活動」に影響を受けながら、人間が動く、あるいは動かされる。ミシェル・セールの「準主体」概念やジェーン・ベネットの「物質の政治生態学」を参照しつつ、森は人間も人間あらざるものもともに行為を行う能力を持つ行為主体であると論じる。
この議論の理論的基盤は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの集合体(アサンブラージュ)理論にある。集合体とは、構成要素が相互作用しながら全体を形成するものであり、部品を取り外しても存続しうる点で有機的構造とは異なる。有機構造では構成する部品を取り除くとその構造は存在しなくなるが、集合体では部品を取り外して交換でき、取り除かれた部品は別の集合体に組み込まれて新たな集合体となる。
場所を集合体として捉えるとはどういうことか。たとえば、街路は単なる事物ではなく、建物、樹木、車、歩道、商品、人、標識などの事物の集合でもない。それらの事物のつながりが、この場所を集合的な場所とする。日常的な生活、交通、商品や貨幣の流通が強度と場所感覚を与える。同様に、家を特別な場所とするのは、家電や家具やドアの色といった事物と、記憶、物語、習慣の集合である。街路も家も、それを構成する人と事物はつねに変化しているにもかかわらず、場所として成り立ち続けている。場所は、人間と事物が領土化と脱領土化を繰り返しながらつねに生成し続ける関係的な集合体なのである。
社会的構築主義とポスト人間中心主義の緊張
本書の議論は示唆に富むが、理論的な観点から二つの問題を指摘したい。
第一の問題は、社会的構築主義とポスト人間中心主義という二つの理論的立場の間に存在する緊張関係である。森はハーヴェイやマッシーを引用しながら「場所は社会的に構築される」と主張する一方で、ポスト人間中心主義に依拠して「人間あらざるものも行為主体性を持つ」と論じる。しかし二つの主張は容易には両立しない。
社会的構築主義は、現象が人間の言説、制度、権力関係によって産出されることを強調する立場である。ハーヴェイが「どのような社会的過程によって場所が構築されるのか」と問うとき、そこで前提とされているのは構築の主体としての人間である。マッシーが資本主義や家父長制を論じるときも、それらは人間の社会関係として理解されている。
一方、ポスト人間中心主義は人間の特権的地位を否定し、人間あらざるものにも行為能力を認める立場である。フットボールの例でボールの動きがプレイヤーの行動を規定するとき、ボールの動きそのものは「社会的」とは言い難い。ボールは物理法則に従って動くのであり、人間の言説や権力関係によって構築されるわけではない。
本書においては、社会的構築主義からポスト人間中心主義への移行が、理論的な論証を十分に伴わずに行われている。「社会的」という語の意味内容を拡張して人間あらざるものの作用も含めるのであれば、その正当化が必要である。あるいは社会的構築主義の枠組みを放棄してポスト人間中心主義に移行するのであれば、本書前半の議論との関係を整理する必要がある。本書が「試論」と銘打たれているように、著者自身がこの問題を完全に解決しているとは主張していないことは理解できる。しかし、人文地理学における場所論の展開を論じるうえで、この理論的緊張を明示的に取り上げ、その射程と限界を検討することは不可欠であったように思われる。二つの立場を並置するだけでは、読者はどちらの枠組みで場所を理解すればよいのか判断が難しい。
「場所は過程である」という命題をめぐって
第二の問題は、「場所はつねに変化し続ける過程である」という本書の中心的主張の理論的地位に関するものである。
森は繰り返し、場所が固定されたものではなく動的な過程であると主張する。「同じ場所は一つとしてない」という命題は本書の基本命題の一つとして掲げられ、「場所は時間の経緯とともに変化し続ける過程である」と明言されている。プレッドの「歴史的に偶有的な過程としての場所」やマッシーの「出来事としての場所」が、この主張の理論的背景となっている。
しかしこの主張には、分析概念としての有効性について疑問が生じる。すべてが変化するのであれば、「場所」という概念で何を捉えようとしているのかが不明確になるからである。
科学哲学者カール・ポパーが提示した反証可能性の基準に照らして考えてみたい。優れた理論とは、どのような事態が生じればその理論が誤りであると判断できるかが明確な理論である。反証可能性を欠く主張は、何が起きても説明できてしまうがゆえに、実質的な内容を持たない。
「場所はつねに変化する過程である」という命題は、どのような経験的事実によって反証されうるのだろうか。場所が変化しているように見える事例があれば、この命題は支持される。場所が変化していないように見える事例があっても、より長い時間スケールでは変化していると言うことができる。表層的には変化していなくても、構成要素の相互関係は変化していると主張することもできる。どのような事態が生じてもこの命題を維持することが可能であるならば、それは経験的主張としての内実を欠いていることになる。
さらに、この命題は説明力が高すぎるという問題も抱えている。場所のあらゆる変化を「過程だから」と説明できてしまう一方で、どのような変化がいつ生じるかを予測することはできない。変化しているという事実を事後的に記述することはできても、変化の方向性や速度を事前に示すことは難しい。
もちろん本書の目的は経験科学的な仮説の提示ではなく、場所を捉える視座の転換を促すことにあるのかもしれない。場所を固定的な実体ではなく動的な過程として捉えることで、場所に関する本質主義的な議論を回避し、場所を所与のものとして自然化するイデオロギーに対抗する批判的な視点を維持することができる。しかしそうであるならば、「場所は過程である」という命題は、世界についての記述(存在論的主張)ではなく、世界を捉えるための規範的な指針(認識論的ないし規範的な主張)として理解されるべきである。本書ではこの区別が必ずしも明確ではない。場所が実際に変化し続けているのか、それとも場所を変化するものとして捉えるべきなのか。この区別を明確にすることで、本書の議論の射程と限界がより明瞭になるはずである。
「試論」としての意義
森正人『誰が場所をつくるのか』は、人文地理学における場所論の展開を丁寧にたどりながら、ポスト人間中心主義の観点から場所概念を再検討した意欲的な著作である。場所を自明視せず、その社会的構成過程に注目する視座は、場所に関する素朴な本質主義を批判するうえで有効であり、本書が紹介する「痕跡」、「軌跡」、「文脈」といった分析概念は、具体的な場所を読み解くための有用な道具立てを提供している。
本書が「試論」と題されていることからも明らかなように、著者自身がこれらの理論的課題を十全に解決しているとは主張していない。むしろ本書は、場所をめぐる思考の出発点を提供するものとして位置づけられるべきだろう。社会的構築主義とポスト人間中心主義の接合をどのように理論的に基礎づけるか。「場所は過程である」という命題を存在論的主張として読むのか規範的指針として読むのか。場所論のさらなる展開のためには、こうした理論的緊張を正面から検討することが求められる。
参考文献
- 森正人『誰が場所をつくるのか』新曜社、2024年